蹴りたい背中の書評-その2-

「ライ麦畑でつかまえて」の評価について、結構きついことを書きましたが、書いたことは結構正直な感想だったりします。あくまで現代の自分の立場から見ればという意味で。
しかし、実のところ、全く評価していないのかといえばそうでもないです。
この作品が書かれたのは、第2次世界大戦直後だから、アメリカという国自体が自信満々だったころだ。言ってしまえば、マッチョな社会だった。そんな中、ホールデンは弱さを吐露する、でも、弱くないように見せかけながら。そう言う意味では、人間の持つ弱さを表現した良い作品なのだと思う。
しかし、弱さを弱さと100%表現することができず、言ってしまえば「インチキなもの」に弱さを押しつけて、自分は強さの高みに逃げ込もうとする。もちろん、自分は弱いと100%承知していながら、それを肯定することができないから、ほかのものを揶揄して自分を高く評価する。この構図は先の評価でも指摘したとおり。
ただ、ホールデンをかばうなら、弱さを表明したというところが、とても勇気のいることであり、強い社会の中で強い人間が受け入れられていくという中で、虚勢を張りながらも自分の弱さを自覚したところはすごいことだと思う。
でも、これは無い物ねだりなのかもしれないけれど、弱さの表明だけではなく、それ以上を期待したのも事実。
その問題に深く切り込んだのが、初期の村上春樹だと思う。
「風の歌を聴け」では「金持ちなんかくそくらえさ」と言う弱い存在である「鼠」に対する連帯を表現する。もちろん、直接的な表現ではなく、ラジオのDJのメッセージである「僕は君たちが好きだ」という言葉によって。
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」においてもその構図は変わることなく、「世界の終わり」の中で森に住む「彼女」に対し「僕」は連帯感を寄せ、世界の正しい考え方から背を向け、「彼女との実存」の中に身を置こうとする。
村上春樹は、サリンジャーが行った弱さの吐露を一歩進める形で、弱さに対する連帯感の表明を行った。しかもその連帯感は差し出がましいものでもわざとらしいものでもなく、そっと肩に手を置いて表現されるべきようなたぐいの連帯感だと思う。こうして「僕」は弱い人たちに寄り添うことによって、彼ら達に対する連帯感を表明しようとする。
そこにはもう「社会が敵として存在していて自分対の世界を抑圧している」という構図はなく、弱さとそれに対する態度が、実存的に語られている。ホールデンが「インチキといったもの」との対立の構図はなく、弱い人たちがどのように生きていったらよいのかというところに目線が向けられている。そこが、「ライ麦畑でつかまえて」と「村上春樹作品」との違いだと思う。そして、弱さの吐露という問題から、弱さへの連帯という問題を描き出した村上春樹は評価されてもいいんじゃないかと思う。
あ、もう評価されているか。
じゃあ、綿矢りさはどうなんだろう、世間の人間関係が疎遠になっていく中で、やはり連帯感に着目したところにいいところに目をつけたな。と感じる、確かに連帯の問題は古くさいテーマだけど、人間が人間と関わっていけば必ず問われるテーマなのでもう一度見直すことは必要だと思われる。
今までの連帯感は「弱さに対する」連帯だったといってもいいだろう。しかし、綿矢りさの場合、弱さに対する連帯と言うよりは、「人間はそもそも弱い」という立場に立ち。その中では「自分だって弱い存在だという自覚がある」との弱い自分と、弱い他人が普通に接することで、儚いが希望があるんじゃないかという可能性を見せている。緩やかに連帯することでなにかの希望があるのではないか、そんなことを感じさせる。と自分は「蹴りたい背中」を見ていて感じた。
ホールデンのことを援護しようと思っていたら、結局「蹴りたい背中」の話になってた。すみません。