イケダハヤト氏のブログにツイートが引用されちゃいました!

ツイートがイケダハヤト氏のブログに引用されました。
(決して悪い意味ではなく)

それは会社の昼時にイケダハヤト氏のこんなツイートを見てしまったことに端を発しております。

考えるシリーズ。みなさんのご意見募集中。 「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えてみる – ihayato.書店 http://t.co/hxYLMFw3YB
— イケダハヤト (@IHayato) September 5, 2013

この問いに思わず脳髄反射してしまい、以下の返信ツイートを送りました。

@IHayato 「人を殺してはいけない理由はない」と思います。その人がどのような不利益をも被る覚悟で行動する限りにおいて、それを根本的に抑制できるような言説は存在しないと思います。
— くろすけ (@kurokuro_mk2) September 5, 2013

@IHayato ただ社会的に考えれば好き勝手に人が殺されてしまうと群生動物としての人に不利益になるので、何らかの言説を用いて抑制しようとするのは理解できることであると思います。
— くろすけ (@kurokuro_mk2) September 5, 2013

@IHayato 言説のパースペクティブを「個」で捉えるか、「集団」で捉えるかによって回答が変わってくる問いだと思いますね。
— くろすけ (@kurokuro_mk2) September 5, 2013

そして、自分のほかいろいろな方がイケダハヤト氏の問題提起(とはいえ、この手の問題提起は古くからあるわけですが…)に対し返信を行い、ある一定数返信が集まったところで、イケダハヤト氏が、ブログに追記する形で、ツイートを引用しておられました。

ツイートを引用される事は想定範囲内なので、いいんですよ。
ただ、自分のツイートの紹介のされ方が…

こちらもやや異色の観点。逆説的な表現に聞こえるかもしれませんが、この方の立場は「ぼくらには法律を犯す自由がある」と考えるぼくと近い気がします。

となっておりまして…
これでは、自分が「人を殺すのも自由」みたいな言説になってしまっているではありませんか。うそーん。
まぁ、直接ご本人に抗議しようとかはまったく考えてないです。「近い気がする」と書かれていますし、このくらいで抗議されていたらたまったもんじゃないので。

ちなみに、自己弁護するわけじゃないんですが、自分は決して、「人を殺すのも自由」みたいな反社会的な考え方を積極的に推し進めようとかまったく考えてないですよ。
自分が殺されたらいやですし。
もちろん、人を殺したくてウズウズしているとかそんなシリアルキラーな感じでもないです。
その部分については、その辺の人と同じ感覚だと思います。
「自由がある」と言うと、めっちゃポジティブなんですが、「残念だけれど、理由はないよ…」というネガティブなものですよ、自分の意見は。

「理由なんか無いぜ、人を殺せ!ひゃっほう~!」みたいな、199X年地球は炎に包まれた的な世界を望んでいるわけでもありませんよ。
しつこいようですが、念のため。

ただ、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、答えというものが存在していない、という立場はとっています。
この辺は、イケダハヤト氏のブログを読んでいただけるとわかると思うのですが、本当に人を殺そうと覚悟している人に対して、それを抑制する有効な言説はなにもないんですよね。

「自分が殺されたらいやでしょう」
⇒「ぜんぜん構わないので殺します」「っていうか、不治の病で1週間で死ぬんです」「自分が殺されるのは嫌です。しかし、だからと言って殺人を止める理由にはならないですよね」(そもそも相互理解が成り立たない)

「あなたの家族が悲しむでしょう」
⇒「天涯孤独なんで」

「あなたの家族が殺されてもいいんですか」
⇒「かまわないっす」

「殺される人の気持ちを考えろ」
⇒「他人の気持ちはわかりません」
などなど、どんな言説に対してもいちゃもん的に回答することができるんですよね…
つまりは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにはこれといった回答はないわけです。

「生物学的に」や「本能的に」といった言説を持ち出している意見も一定数ありましたが、まさしくそのように行為しようとしている人にとって、「生物学的に」とか「本能的に」といわれたところで、「?」となるでしょう。

なので、誠実に回答するなら、「答えはない」となると思います。というか、ならざるを得ない。

ニーチェが興味深いことを言っております。

真理とは、それなしには特定の種類の生き物が生存できなくなるような、ある種の誤謬のことである。結局は、生にとっての価値が問題なのだ。

この考え方は、丁度自分の2つ目のツイートに対応しております。
ここでいう「真理」が、「ある種の群生動物のなかにおいて正しいとされる意見 」と解釈されるならば、我々群生動物である人間は、ある種の誤謬を、「真理」として称揚し、不利益から逃れるために、誤謬であることを織り込み済みで、吹聴せざるを得ないということです。
それが、群生動物である人間の利益になるのであれば、それはそれで、間違ってはいない行為であると言わねばなりません。
しかし、不誠実な態度であると思います。
何故ならば、本来回答がない問いに対して、誤謬であることを確信した上で「嘘」を言わねばならないからです。

なので、「なぜ人を殺してはいけないのか」に対する、何らかの回答のうちで「理由がある」という立場から回答を行う人は、その言説が一種の誤謬であり、不誠実な「嘘」であることを織り込み済みで、あえて回答する、ということを認識せざると得ないと思われます。
もちろん、その「嘘」がいけないものなのか、と言われれば、「不誠実だが、群生生物である人間が生きてゆくためには仕方の無い嘘である」と功利主義的に回答することは可能です。

どこまで、この不誠実な「嘘」を織り込み済みで、社会の中で生きてゆくか、それが重要なんだと思います。
このような問題に対しては。

もちろん、ヴィトゲンシュタインのように、

語り得ぬものについては、沈黙すべきである

という態度を取ることもできますが、少なくとも一見すると回答になっていない感じがするので、ここではこの態度については深くは触れないことにします。
っていうか、触れだすと止まらなくなる…

ブックガイド

この手の議論は哲学の世界(特に倫理学)ではポピュラーな議論でありまして、哲学科なんかに入るとこの手の話の書かれた書物を見かけますが、自分が読んだことがある・見かけた本の中からいくつか紹介したいと思います。
「これがニーチェだ」
永井均氏のニーチェ解釈が主体となっている本ですが、本の冒頭付近にこの「なぜ人を殺してはいけないか」(なぜ道徳的であらねばならないか)を記述しています。
異端のニーチェ解釈ですが、常にスリリングな展開をするので、何度も読み返しています。しかも何故か最後感動する、面白い哲学書です。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
この本は読んだことないです…ただ、永井均氏が関わってるので、「これがニーチェだ」に近い感じにはなっているんではなかろーか。
「道徳の理由」
こちらは絶版になっています。自分が持っていた本は大学時代の友達に借りパクされたので手元にありません。
どちらかというとテクニカルな内容で「何故道徳的に生きねばならないのか」を論じているので、哲学的な議論に慣れていないと読むのにきついかもしれません。
こちらの本の編者である安彦一恵氏の論文がネットで読めるので、こちらを参考にしてみるのも良いかもしれません。上記本の一部には、リンク先の議論がまとめられた形で掲載されています。(リンク)
ミニマックス相対譲歩の原理という一種のゲーム理論を使い、数理的に道徳の理由に迫るある意味興味深い内容になっています。
本の中では安彦氏の議論だけでなく様々な識者の方の意見が書かれているので、非常に面白いんですが、絶版なのでどうにもこうにも…