村上春樹の初期作品にみるコミットメントとデタッチメント

宇野常寛氏の「リトル・ピープルの時代」を読んでいて、思わぬ一節にであった。
それは、村上春樹について論じた章の部分で、このように書いてあった。

コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば,小説を書くときでも、コミットメントということが僕にとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(関わりのなさ)というのが僕にとっては大事なことだったんですが。
河合隼雄・村上春樹「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」岩波書店・1995年

この文章を読んだとき、はっきりとした違和感が自分の中にあったと思う。
村上春樹こそ、初期から一貫してコミットメントについて書いてきた作家ではないかと思っていたからだ。
本人から、上記のように言われてしまっては、元も子もないのだが、しかし自分には確信があった。
村上春樹は、昔からコミットメントについて触れているという。

そこで、村上春樹の初期作品群の中におけるコミットメントとは何かを見てゆくことにする。

なお、ここで、村上春樹の初期作品群と自分が呼称するのは、以下の作品である。

風の歌を聴け (執筆済みです)
1973年のピンボール
羊をめぐる冒険
パン屋再襲撃
世界の終わりとハードボイルワンダーランド

以上の作品群を初期作品群と定義し、話を進めていきたい。
初期作品群からはノルウェイの森を意図的に外してしまった。
この作品については、正直言って、自分には異質に映り、いや、それ以降の作品すべてが自分には異質に感じてしまうため、このような切り分けで作品群を見てゆくこととしたい。
なお、何故ノルウェイの森が初期作品群から外れ、自分からすれば異質に映るのかと言ったことには、今回は触れないでおこうと思う。というより、これからも触れないと思う、未だに言語化することができない何かがそれらと自分との間に横たわっているからということだ。だから、まだ書くには早すぎる、そういうことだ。

では、次回の記事より、初期の作品群ので、村上春樹が何にコミットメントしていて、何にデタッチメントしているのかということを掘り下げてゆきたいと思う。