「1973年のピンボール」におけるコミットメントとデタッチメント

ちょっと間が空いてしまいましたが、引き続き、村上春樹の初期作品群におけるコミットメントとデタッチメントについて取り扱いと思います。
今回は、村上春樹2作目の小説、「1973年のピンボール」です。

この小説は村上春樹の初期の小説群において、非常に不思議な立ち位置に存在している小説である。
風の歌を聴けの続編として書かれた鼠3部作のうちの真ん中の作品なのだが、非常にとらえどころの無い小説として描かれている。

大学を卒業した、風の歌を聴けの<僕>は、<僕>の友人と翻訳事務所を開業する。その翻訳事務所は繁盛し、<僕>はある意味成功者となる。そんな<僕>が朝起きると、ベッドに全く区別のつかない双子が寝ており、3人の奇妙な共同生活が始まる。
鼠と<僕>とが一緒に描かれているシーンは全くなく、鼠は生まれた土地に暮らしてはいるが、何らかの喪失感を感じながら生きている、それはきっと、夏の終わりと共に、自分たちの居場所に戻ってしまうからだ。そんなとき鼠は、中古のタイプライターを譲ってくれた女性と仲良くなり、体を交わすが、喪失感は消えない、そして鼠は長年住み慣れた街から出て行くことを、ジェイズバーのバーテン、ジェイに告げて、街を出る。
<僕>は、昔熱中したピンボールマシーン「スリーフリッパーのスペースシップ」のことが無性に気になり、それを探すことを決意し、ようやく「スリーフリッパーのスペースシップ」を見つけ出す。

あらすじをざっくり言うとこんな感じの小説だが、<僕>と鼠が言葉を交わすシーンは全くなく、<僕>の場面では<僕>の主観で文章が描かれ、鼠の場面では鼠の描写が第三者からの視点で描かれている。

この小説において、何に対しデタッチメントがあり、何に対しコミットメントがあるのだろうか。
やはり基本的なデタッチメントは<僕>の態度そのものである、<僕>は双子と3人で慎ましく暮らしてはいるが、仲が悪いわけでもなく、会話がないわけでもなく、むしろその対極で、仲良く3人暮らしている。しかし、その3人ともお互いのテリトリーを堅く固守しているように描かれており、精神的なやりとりは一切描かれることはない。そして、そのデタッチメントを決定づけているのが双子の描写のされ方だと自分は感じる。双子は全く見分けがつかない「完璧なコピー」と描写されるほどである。それ故、双子は存在は与えられているが、個別の人格というようなものは与えられておらず、判で押したような人物造形にとどまっている。入れ替え可能で有り、どちらも似たような人物として描かれているのだ。だから、<僕>の他人に対する態度は基本的にデタッチメントが貫かれており、特定の一個人に肩入れすることはない。双子のことを快く思っているが、あくまで二人セットの存在として扱われており、それ以上でも以下でもない、ここにもコミットメントは見られない。
鼠のパートにおいてもやはりデタッチメントが貫かれている。しかし、鼠のデタッチメントは、コミットメントとの間で揺れ動く。出会った女性に対するコミットメントを心の中では望んでいながら、それに踏み切れず、最後は結局街を出ると言う形で、女性と街に対するデタッチメントを貫く立場を取っている。

では、この小説のコミットメントは何処にあるのだろうか。
結論から言ってしまおう「配電盤」と「ピンボールマシーン」である。
配電盤は、電話の配電盤で、物語のやや最初よりの場面に登場する。
朝方まで双子とバックギャモンをしていた<僕>は、日曜日の朝だというのに、予期せぬ来訪者に起こされる。
それが配電盤の交換する中年男性(ひげが濃いと描かれており、村上春樹自身の比喩なのか?)で<僕>の部屋に電話の配電盤があるという、配電盤は古くなっており、新しい配電盤と交換するというのが中年男性の役目だ。
双子のアドバイスで配電盤を見つけ、新しい配電盤を交換した中年男性は、配電盤を忘れて、次の仕事に向かってしまう。
そして、<僕>と双子は、配電盤の葬式をするため、車を借りて貯水池に向かい、配電盤を貯水池に投げ、葬る。
ここで配電盤は、古い時代を比喩するものとして描かれている、様々な人を結び、その結果パンクしてしまう(古くなってしまう)という、一種の1つのイデオロギーの終焉を、配電盤という物体を通じて、描いているのだ。
そして、その役割を終えた、一種のイデオロギーの葬式をするという、こと、最後まで面倒をみるということに、<僕>のコミットメントが現れている。

そして、もう一つのコミットメントの対象は、題名にも使われている「ピンボールマシーン」である。
<僕>は、一時期ピンボールマシーンにハマり、特に「スリーフリッパーのスペースシップ」の最高得点をたたき出したほど夢中になっていた。そんなピンボールマシーン「スリーフリッパーのスペースシップ」も、存在していたゲームセンターが解体され、泥水のような味のコーヒーを出すドーナッツショップに変わってしまい、行方知れずとなる。「スリーフリッパーのスペースシップ」は日本に3台しか輸入されず、しかも、追加で輸入したときには、製造元がなくなっていたという悲劇の筐体なのだが、<僕>は、ピンボールマニアの大学講師の助けを借り、ついに「スリーフリッパーのスペースシップ」との再開を果たす。かつて、<僕>が最高得点をたたき出した筐体である。だが、<僕>は再開した「スリーフリッパーのスペースシップ」をプレイせず、ただ、「スリーフリッパーのスペースシップ」と「会話」をして、その場を立ち去る。
何故、「ピンボールマシーン」が、コミットメントの対象になり得るのだろうか、これのヒントは、加藤典洋著「イエローページ村上春樹」に書かれているコラムがヒントを与えてくれる。

昔のピンボールは、ほとんどがペイアウト式のギャンブル・マシーンだった。だが、第二次世界大戦をへて、不健全なギャンブルが法と社会から敵視されはじめると、1947年、ゴットリーブ社からはじめて「フリッパー」つきのピンボールが世に送りだされ、一大転機を迎える。これにより、ピンボールはプレイヤーの運より、テクニックを重視する展開になり、よりポピュラーな一を占めるようになる、
ところで、フリッパーの採用はピンボールの正確をガラリと変えた。これは登場と同時に、お金の出てくるペイアウトの口が消える。つまりピンボールは、外界から隔てられた、完璧な独立空間となるのだ。
以後、ピンボールからはお金はもう出てこなければ、パチンコのように玉も出てこない。1回100円か200円入れると3回プレイできる。ただそれだけ。ピンボールの誕生の秘密にはこの出口の消滅、無償制の完成にある。それは外界との関係を遮断し役に立たなくなることで自立する、村上の「文学」の正確なメタファーなのだ。

この小説で村上春樹は、何故ピンボールマシーンを登場させたのだろうか。
それは、上記の引用からもわかるように、ピンボールマシーンが時代からの圧力によってその形を変えさせられてしまったという歴史を持つからだ。この変容を転進とみるか、撤退とみるか、変化とみるか、進化とみるか、それは人それぞれであろうが、重要なのは、外部からの圧力によって、その形を変えざるを得なかったというその事実性の方である。
そして、それは、一種の悲劇として村上春樹は捉え「スリーフリッパーのスペースシップ」が特に、その悲劇性を代表する機種として描かれている。そのピンボールマシーンに村上春樹は、「こだわる」ことによって、コミットメントの表明を行っているのだ。社会の圧力で生き方を変容させられざるを得なかった「もの」たちに対するコミットメントである。
ピンボールマシーンは鼠の対極に置かれた存在だ。ピンボールマシーンは、時代の圧力によって確かに変容させられたけれども、それゆえ社会に受け入れられ、一時的にせよ時代を謳歌する。しかし、鼠は、時代の圧力に同調することができず没落する。その対比が、この小説の中にはある。
つまり、ピンボールマシーンに対するコミットメントを通じて、両者の交わりこそ描かれてはいないが、<僕>から鼠に対するコミットメントを表明するものだと言っていい。
風の歌を聴け、の時のやり方と同じように、<僕>は確かに直接的なコミットメントを「人」に対して行わない。しかし、よく読めば、何かを代わりにして、村上春樹はきちんとコミットメントを行っているのだ。