【Lr】僕の写真現像に対する考え方


雪の日

デジカメの写真を現像(加工)するって悪いことなの?

自分の現像に対するスタンス

Lightroomで写真を現像することを今後書いていこうと思っていますが、まず自分の写真加工に対するスタンスを表しておきたいと考えています。

現像って何?

まず、デジカメにおける現像って、何もプリント屋にデジカメのデータをプリントアウトして貰うことのみを指すのではありません。
言ってしまえば、写真の加工です。
暗く映ってしまった被写体を明るくしたり、色かぶりを補正したり、トリミングしたり、水平だしをする一連の写真加工のことを現像とデジカメの世界では呼んでいます。
おそらく、フィルムの時代に、フィルムだけでは写真として意味を成さず、それを現像して初めて見ることができましたが、その一連の作業から「現像」という用語がデジカメの世界にも持ち込まれたのだと思います。
あくまで、自分が思う範囲ですが。

現像はイケない!という考え

デジタル一眼や、ミラーレス一眼、ハイエンドコンデジで撮影した写真をLightroomなどを使って加工することに抵抗を持つ人もいるかと思います。
写真を加工するなんて卑怯だ、もってのほかだ。
きちんと構図を考え、必要な絞りと露出をコントロールすれば写真を加工する必要は無いはず、それは修正ではないのか。
という考えです。

実は自分もこういった考え方をしていた時期がありました。
というのも、自分は元々、モノクロフィルムを現像液につけて現像し、それを暗室で印画紙に撮すということをやってきたので、何でもできてしまうデジカメというものに何となく、それまでやってきたことを否定されてしまったような、何か手っ取り早く何でもできる方向性に一定の抵抗感を持っていました。
印画紙に写真を定着させるときにかなり、加工はできるので、モノクロフィルムの現像も、デジカメの現像と似たり寄ったりなんですが、デジカメの場合は、数字で表したパラメーターが存在しているのに対し、印画紙の場合はどれくらい露光させれば自分の思い通りの絵作りになるのかというのは、パラメーターではなく、経験と直感だったりします。だから、似たり寄ったりの作業であることには変わりないのですが、何となくデジタルで何でも加工できてしまうという風潮に一定の納得のなさというものがあったんだと思います。

デジタル一眼レフを購入してからも、Jpeg形式で撮影して、写真を加工しない、なるべく1回の撮影で納得のいく写真を撮る。ということを心情に写真を撮っていた時期がありました。何故かと言えば、当時のデジカメがそれほど性能が高くなく、メモリカードも高価であったため、Jpegでなければそれなりの枚数が撮影できないという制約がありました。
しかも、Jpegの場合、補正の幅が限られていることもあり、必然的に1枚必殺というか、1枚の写真で撮影と現像を済ませてしまうと言う考え方が支配的となっていました。
いわゆる、撮って出しというやつですね。

現像しても良いんじゃ無いかと思い始めました

その考え方を捨てたのが、EOS40Dを購入して京都旅行に行ったときのことです。
このときは、大容量のコンパクトフラッシュを手に入れていたこともあり、RAW形式でも1000枚ほど撮影できる環境でした。そのため、RAWで写真を大量に撮りまくりました。
旅行なので、その場で撮影パラメータのことを深く考えていては、撮影の機会を逃してしまう可能性があります。
Jpegでパラメーターを追い込むよりは、大まかなパラメーターを決めた後はひたすら撮影に専念しました。その方が、旅も楽しみながら、それなりの写真も撮影することができます。ここぞと言うときは、RAWで且つパラメーターをある程度納得がいくまで絞り込めばいいだけの話です。
そのように考えることによって、自分の写真の加工に対する考えが変わりました。

写真は主観を写し取るものでもある

今のは、利便性から来る写真加工の正当性を述べたつもりですが、ここからは全く別の観点から写真加工について書きたいと思います。

写真加工は、気持ちを表すことにも活用できると言うことに気づきました。
たとえば、あなたが病気で長い間入院しているとしましょう、そしてようやく医師の許可が出て、病院の中庭に出ることを許されたと仮定してみます。
あなたはたまたま手にカメラを持っています。

久しぶりに出た病棟から見た空はそれは高く、澄んでいて、青々としてみることでしょう。
あなたはそのときの感動を残そうと、カメラで写真を撮ります。

そして、退院した後に、PCで取り込んだ空の写真を撮って出しで、ブログにアップしたとします。
もちろん、あなたはあのときの感動というフィルターを通して、写真を見ることになるので、その写真の良さを感じながら見ることになります。

しかし、他人は違います。
そのようなストーリーをある程度織り込まれていれば、そんな風にして他人も、あなたの撮した空の写真の意味を共有することができますが、たいていの場合はそうはいきません。

そこに、現像(加工)する意味があるのです。

カメラが映し出す現実は、物理的な現実に過ぎません、そのときの環境的物理的現象(光線の具合や空の大気の状態)を、カメラという光学的な物理現象を表現する機械で表現した現実なのです。
そのため、あなたの主観は、基本的に一切無視されます。
(もちろん、その主観を表現するために、アングルだったり、その場で追い込むパラメータがあったりします)

しかし、ブログに写真をアップし、少しでも自分の主観をそこに込めたいとしたら、現像という手段に頼ることができると考えます。
つまり、現像によって、少し空に青みを加えてみる、映り込んでしまった不要なものをトリミングで取り除いて見るといったことです。
そのことによって、もしかしたら、ブログを見ている人に、その時のあなたの主観的な感動を共有できるかもしれない。

その意味において、撮った写真を現像することは悪いことでないと思います。

現像に頼り切るのは止めましょうw

ただし、やり過ぎは禁物です。
突き抜けてしまえば、それはそれで芸術的な表現になるのかもしれないですが、それが分からない程度の現像は写真を見た人に誤解を与える可能性があるため、自分はやり過ぎた現像は好きでは無いです。きちんとそれなりの解説がなされていれば理解できますが、なんの解説も無しにきつい加工が施された写真を見ると混乱します。

話はそれましたが、主観的な内観を表現する一種の手段としての現像は「あり」だと思っています。
写真を撮る行為それ自体が一種の自己表現であるように、写真を現像することも自己表現の一種です。
恐れず、写真を現像しましょう!

もちろん、写真を撮るときに徹底的に追い込んで、撮って出しを追求するのも自己表現です。
どちらの立場も否定するつもりは無いです。
(ただ、どこまで現像でカバーできるか、できないかの幅を知っておくことは、とても重要だと思います)

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