「羊をめぐる冒険」におけるコミットメントとデタッチメント

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羊をめぐる冒険

まずは言い訳から…

前回の、1973年のピンボールの回からかなり時間が空いてしまいました。
言い訳めいたことになりますが、ブログを毎日更新すると決めてから、このような執筆に時間がかかるネタはどうしても敬遠しがちになっていました。

ブログの改修作業も一段落ついて、時間も取れたので、久しぶりにこのネタでブログを書きます。

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「羊をめぐる冒険」のコミットメントとデタッチメント

あらすじ

羊をめぐる冒険のあらすじって、書こうと思うと長くなるし、端折ると意味が無くなってしまいそうだけれど、できるだけ正直に書いてみようと思います。

<僕>はもうすぐで30歳という歳になろうとしたときに、「妻」から別れを切り出される。<僕>はそれに承諾し、独りになる。やがて、耳のモデル・娼婦・事務員をしている女の子と仕事を通じて知り合いになり、とても良い仲の友達となる。
状況は前後するが、<僕>は、翻訳事務所の相棒と広告代理店のような仕事にも手を広げており、その広告媒体に鼠から送られてきた「羊」の写真を掲載する。
実はその羊はとても特殊な羊であり、その羊を追っている、ある「先生」の秘書の男から羊を探すように命じられ、(半ば嫌々ながらも)<僕>はその特殊な羊と鼠を探すこととなる。

これが簡単な「羊をめぐる冒険」のあらすじだ。

デタッチメント

この作品も、前2作同様に、非常にデタッチメント臭の強い作品になっている、主人公である<僕>はそれほど他人に対して関わろうとしない。
離婚を切り出した「妻」に対しても、離婚を拒否する態度は見せず「君自身の問題だ」と言って、彼女の自由に任せる、<僕>は離婚について特に口を出さない。
<僕>の仕事の共同経営者は、アルコール中毒の初期状態に片足を突っ込んでいるが、それに対しても<僕>は何も言わず、共同経営者の好きに任せている。いずれ彼がどのような末路をたどるか正確に予測できているのにもかかわらずである。<僕>は、共同経営者の相棒とちょっとした口喧嘩になったときに、酒のことを皮肉ってしまうが、すぐに後悔しており、本気でアルコール中毒についてどうこうしようと考えているわけでは無いらしい、ということが分かる。
ここに、<僕>の行動原理が如実に表れているといって良いだろう。
彼は他人の判断に対しては特に口を差し挟まない(つまり、デタッチメントな)という立場を貫いている。

それが<僕>の行動規範だからだ。
<僕>が羊を探してくるように、「先生」の秘書から依頼を受けた際にも、もし探すことができなければあらゆる代償を支払わされるということが分かっていながら、全く羊を探そうとしない、それは鼠に迷惑がかかるかもしれないという予感からでもあるが、もっと直線的に言えば、人に命令されて動きたくは無い、ということなのだ。

この<僕>の、自分に対する、他人に対する行動規範を一言で言えば、「自由意志」に基づく行動は尊重されねばならないというものであろう。そこには他人の意志は介入してはならないのであるから、<僕>は他人の判断を尊重するし、自分の判断をかき乱されたくは無いのだ。

その<僕>の、モンロー主義的立場が、この作品のデタッチメントを構成しているといっても良いだろう。

コミットメント

この作品を読んだとき自分は、前2作よりもデタッチメントは強く感じず、コミットメントが強く感じられるようになっている、では何故コミットメントが強く感じられるのだろう。
そして、そのコミットメントは何に対するコミットメントなのだろう。

この「羊をめぐる冒険」では、コミットメント部分が非常にわかりやすく提示されている。
最後、<僕>と鼠は「再会」するのだが、鼠は再会した時にこのようにいう。

キーポイントは弱さなんだ

そう。
これがすべてだ。
この物語は、弱さに対するコミットメントが、最後に、そのまま提示される。
比喩でも暗喩でも無く、そのまま、むき出しにした状態でそこに置かれて提示される。

これは、これまでデタッチメントを前面に出していた、村上春樹の小説らしからぬ、上手く、コミットメントを隠匿し、分かる者だけに分かるように提示していた前2作のやり方とは全く違う形で読者に提示されている。

一見不可解な提示の方法ではあるが、これも<僕>が言い表したコミットメントで無く、コミットメントを表明するのは鼠だ。だから、<僕>のデタッチメント性というものはきちんと保存されながらも、コミットメント性も担保されるというように、この作品はできている。
それは、丁度、「風の歌を聴け」では、ラジオのDJが、「1973年のピンボール」では、ピンボールマシーンがコミットメントを表していたように、この作品でも、<僕>ではなく、鼠という存在にコミットメントを託すという形が取られている。

では、この小説の羊とは何だろう。
「先生」の秘書はこういう。

羊は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが羊だ。(……中略……)可哀想な動物だと思わないか?

この小説のなかで羊という存在は、「風の歌を聴け」では、鼠・小指の無い女の子、「1973年のピンボール」では、ピンボールマシーンに呼応する形で、以前は確かにあったが、今は(社会から)忘れられてしまったものとして捉えられている。

そして、そのものたちに対しデタッチメント的態度をとる<僕>が関わることで、コミットメントを引き出すように各作品が形作られているのだ。
そのように捉えれば、この作品においても、鮮やかに、コミットメントとデタッチメントが描かれていると言っても過言ではない。

<僕>は態度として、デタッチメントを貫くが、その向こう側には、忘れられてしまったものへの眼差しがある。
それは、明らかな態度では無いかもしれないが、コミットメントなのだ。
忘れ去られ、力を失い、存在を失い、没落していったものたちへの暖かい眼差しなのだ。

まとめ

初期の村上春樹の小説は、デタッチメントの小説であると言われる。
本人ですらそう言っている。
しかし、鼠三部作をとってみても、必ずしもデタッチメントだけの小説なんかでは無い。
きちんと読み通してみれば、コミットメントも見つかるものなのだ。
確かに、そのコミットメントは、気づく人には気づくようにしか提示されておらず、明確な主張として為されているわけでは無い、しかし、「個」というものにかたくなになる<僕>の向こう側、<僕>の視線の先には、時代に取り残されてしまった人々やものが確実に存在し、<僕>はそういったものたちに、何とも言えない視線を送っているのだ。おそらくは、温かい視線を。
だから、自分は、村上春樹の初期の小説をデタッチメントの小説だなんて思わない。
きちんと、コミットメントも含まれている小説なのだ。
<僕>の態度は確かに、コミットメントとは言えないにせよ。

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