会社で人権についての講習会受けてきました

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風景写真
※本文と写真はあまり関係ありません。穏やかな緑の風景で目をリフレッシュしてください。

き!ほ!ん!て!き!じ!ん!け!ん!

会社で何故か、人権についての講習会受けてこいと命令を受けたので、拒否権を発動する暇もなく、受けることになりました。

業務の一環ですし、普通に業務としてカウントされるので何の問題もナッシング。

トンデモ命令でもなんでもないですし、それはいいんです、はい。

てか、内容も人権に関するとても普通の内容でして、特に納得できねー!とかありませんでした。
人権のおべんきょするのって、学生以後初めてな気がする。
人権って単語は社会人になっても何度か耳にしてきましたが、深く掘り下げたことは一度も無く、改めてこういうこと掘り下げて聞いてみると為になりますね。

内容的には「人権って大切ですね」っていう感じで無難に受け入れることができたのですが、話を聞いていて、哲学科として、疼く内容がありましたので、ここで害の無い程度にイチャモンを入れていきたいと思います…

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科学的根拠について

人権の講習会の中で、「たとえば、血液型占いのように科学的根拠の乏しい事象によって、他人を差別してはいけない。(B型の人間はこうだ!とか決めつけたり)」っていうのがありました。
別に個人的にそういうこと信じているとか、仲間内でネタにするぐらいならいいらしいんですが、公的な場で科学的根拠に乏しい内容を元に他人を区別したりはいかんようです。

当然と言えば当然なんですが、これを聞いたときに、ふとした疑問が。

「基本的人権の科学的根拠って何?」です。

もし、科学的根拠に乏しい言説が公的な場での発言を抑制され、基本的人権が公的の場での発言として妥当なものとして存在するのであれば、科学的根拠も存在していないと、矛盾をしてしまいます。
だから、「基本的人権の科学的根拠って何?」って思ったんですけれど、とても質問できそうも無かった…

おそらく、講習してくれた人が当惑しまくるのが目に見えていたので…

そこで、自分で勝手にひねり出して納得した理論をば。
「基本的人権公理説」です。
数学とかだと、それ以上根拠を求められない基本的な「お約束」を、「公理」と呼称して、そこの上に、公理系を構築していくのですが、基本的人権っていうタームはその「公理」とすることで、根拠の提示を拒否するっていう立場です。

近代ヨーロッパの思想はこの公理系の枠組みで理論が構築されており、某宗教などなどはこの公理系とは違う枠組みで公理系が構築しているので、対立する、みたいな感じですかね。

所詮公理系なので、ある体系を諸矛盾無しに説明できれば何だっていいわけです。
現代集合論として、ZFC集合論を受け入れるか、一般連続体仮説がZFC集合論からは否定も肯定もできないからZFC集合論を捨てて、新たな公理系を構築するかは、当人の自由と根気の問題であるっていうのと似てますね。

みんな違っても良い!

あと、イチャモンつけたくなったのは、「みんなの違いを受け入れるのが人権意識で大切。でも、唯一共通しているのは、すべての人間が幸せに生きたいという気持ち」っていう、文章があったんですが、これを見たときに、

「じゃぁ、人権侵害に幸せを感じるようになってしまった人はどうなるんだろう」っていう疑問です。

これ、きっと答えが無いはず。
公的な絶対的多数の人間がその彼を否定するか、何とか彼をだまして、人権派に転向させるしかないんじゃないんでしょうか。

この辺って、倫理学を巡る難問、モラル・アポリアとして有名だと思うんですが、有効な決着はついたんですかね。

ニーチェあたりに、言わせちゃうと、そこに幸せを見いだしたのであれば、もう仕方ないって「彼」のことを後押しとかしちゃいそうなんですけれど、どうなんでしょ。

まとめ

基本的人権とか、基本的な部分ってどうしても、イチャモン付けたくなる言説が多く出てきますよね。
それだけ根源的な部分って言うことなんでしょうか。

とりあえず、有効で説得力のある言説を自分は持たないので、そこは常に各自が考えて行動するしか無いですね、とお茶を濁して逃げておきます。
※ここ、マジ議論すると沼にはまりそうな気がするんだよな…

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