意識・脳波・還元主義


しびれ

意識とは一体何か

植物状態の人にも意識がある:脳波解析で明らかに」この記事を読んで、驚愕した。
特に、植物状態の人にも意識があると言うことに驚愕したわけでも、身体が動かせないのに意識体験だけが存在してしまうと言う、考えるだけでも辛い状況に驚愕したわけでも無い。

簡単に言うと、「意識」=「脳波」であるという図式が意図もあっさりと受け入れられているということに驚愕したのだ。

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意識と脳波は別もの?同じもの?

この実験で明らかになったのは、植物状態にある人の何人かにおいて、通常の意識状態にある人と同じような刺激を与えると、同じような脳波を示したということだ。
そして、この中で暗黙的に受け入れられている前提条件というのが、脳波がある特定の状態を示すと、ある特定の意識体験が現れているものと考えて差し支えない、という前提だ。
しかし、この前提って、正しいんだろうか。
この前提は、意識体験を脳波に還元していることから、一種の還元主義なのだけれど、その還元が何故故に成り立つのか、といったメカニズム的な部分に全く触れていない。
何故、脳波が意識体験を生み出しているのか、という根源的な問いに答えられなければ、ある特定の部位の脳波が同じ状態を示している全くの別人が全く同じ意識体験をしているという結論は導き出されることはあるまい。

事故で、脳の半分ほどの機能が失われても、植物状態にならずに生きている人もいる、そんな人は脳に損傷を受けているので、損傷を受けている部位によって何らかの影響が出る、言語に関わる部分であれば言語を上手く発することができない、動体を認識する部位に損傷を受けると、動いている物体を認識できなくなるなどなど。
そういう人たちと、通常の人たちは、脳波の出方に違いがあるはずだ。
仮に、脳のある部位が損傷したとして、それが健常者におけるある意識体験と結びついている部位だとすると、1度脳の特定部位を損傷した人は、健常者と同じ意識体験を2度と体験できなくなるという結論になる。
意識体験が特定の脳の部位における脳波の出方であるという還元主義は、意識体験を理解したようで、全く理解していないとしか思えない。

もし、意識とは脳の特定の部位から脳波がでることだと仮定すると、先ほど例に挙げた、脳の一部に損傷は受けたけれど、植物状態ではない人は、場合によっては、ある程度普通に生活しているのだけれど、特定の意識体験をしていないという奇妙な構図が出現することになる。
植物状態でありながら、健常者と同じ脳の部位の脳波が計測されたことによって、「意識体験がある」と判断された人よりももっと混乱するような状況に追い込まれるのは必至であるように思われる。
なぜなら、ある程度普通に生活している人に対して、「おまえは意識ながないけれど生活できている」というようなものだからだ。

だから、この実験結果から導き出される結論には、疑問を差し挟まざるを得ない。

結局意識って何なの?

結局は、この問いに収斂されてしまうのだと思う。
意識を、「脳の特定の部位から脳波が発せられること」とすると、確かに植物状態の人からも健常者と同じような脳波が検出されれば、意識があると判断されるだろう、しかし、脳の一部が損傷している人が普通に意識が有りながらも「意識が無い」と結論されてしまう危険があるように、「脳の特定の部位から脳波が発せられること」が意識の条件では無いということになる。

もっというと、何故脳という物質に走った電位(脳波)が意識体験を生み出しているのか、という根源的な疑問に対する回答には全くなっていないので、この手の話はどうにもしっくりこない。

意識に対する定義も曖昧であれば、ではなぜその意識が発生するのかという深い疑問についても全く回答を示していない(示そうとすらしていない)というところがこの手の実験結果から導き出される非常に気持ち悪いところなんだよなぁ

なんか、精神的な部分と、物質的な部分を適当に結びつけて還元主義やっているだけのことに見えてしまうのは自分だけなんだろうか…