なんなんだ!このモヤモヤは!-小説版秒速5センチメートル-

前回モヤモヤする、と書いた秒速5センチメートルの小説版ですが、ようやく言語化する決心がついたので書いてみまする。
(※ネタバレがあるのでご注意ください)

セカイ系

ずいぶん唐突ですが、「セカイ系」なる単語を私、ここに来て初めて知りました。
いや、単語の存在自体は認識していたんですが、意味まではわからなくて、エロゲーの1ジャンルぐらいにしか思っていなかったんですが、結構奥の深い概念なんですね。Wikipediaから引用してみましょうか。

「「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」

だそうです。

さて、話変わって 

映画版秒速5センチメートルを見た人が何故「鬱」と感じるか、その理由は人それぞれだけれど、1つの仮説として、自分は前回、物語の構造上そうなるべきと皆が思うであろう結末からそらされたことに対するフラストレーションではないか、と考えた。(いろいろ書きましたがざっくり言うとこんな感じです)
で、自分は映画版を見たとき鬱にもならなかったし、モヤモヤもしませんでした。
まぁ、こういうこと(映画の内容みたいなこと)もあるよねと。
しかし、小説版を読んで激しくモヤモヤしました!
鬱にはならなかったですが、激しくモヤモヤしました!
何故だ!?
ということで、今回はそのモヤモヤの原因を探っていきたいと思う。

小説版映画版

秒速5センチメートルの小説版は、映画版のノベライズに近い形で書かれている。作者は映画版の監督である新海誠が、映画版の公開と共に執筆を始めるという時間軸で作品にされている。
小説は3つの断片から構成されており、丁度、映画が3つの断片から構成されていたのと同じ形式を取っており、各断片の名称も全く同じ。
1つめの「桜花賞」2つめの「コスモナウト」3つめの「秒速5センチメートル」。
1つめと2つめに小説版と映画版に大きな違いはない、文字になった分情報量が多めになっており、細かい部分までよくわかるようにはなっているが、根本的な違いは無いと言って良いと思う。
2つめの「コスモナウト」については、基本路線は全く同じだが、視点が完全に「澄田花苗」視点になっていて、主人公の遠野の視点は全く入ってこない(映画版の場合は遠野の空想のような場面が織り込まれている)。その部分が「コスモナウト」の小説版と映画版の違いではあるが、それ以外の部分はほぼ同じである。
ただ、小説版と映画版で大きく違うのが3つめの「秒速5センチメートル」の部分である。映画版では、主人公である遠野が会社を退職する場面からスタートするが、小説版はもっと時間が長い物語として書かれている、大学生時代から就職し、そして退職しするまでの描写があり、最後は、映画版にも登場したあの踏切のシーンで終わる。映画版では描かれていなかった大量の情報が小説版にはあり、それが決定的に異なる。それは、小説版と映画版の印象を大きく変えてしまうほどの情報量といっても良いと思う。
まず、大きいのは、映画版ではちらりとしか出てきていなかった清水という女性との交際模様が克明に記載されていることで有り、そして、清水という女性との交際の前にも他にも2名の女性と交際したことが書かれている。
この事実に、自分は酷く狼狽した。
なぜか。
映画版を通して1つ流れていたものとして、遠野の明里への想いというものがあった。
「桜花賞」ではわざわざ表現するまでもなく、「コスモナウト」では、遠野の未来へのイメージの中に出てくる明里らしき人物、「秒速5センチメートル」の中でも「あれほどまで切実だった想い」として、明里に対する想いがそれとなく示唆されている。
と、自分はそう思っていた。
しかし、小説版ではそうではなかった、遠野は、結局3人の女性と付き合っていたのだ。
そこで、自分は少し狼狽した。
てっきり、明里に対する想いが強いから、女性に対して上手くアプローチできない人間として造形されているとばかり思っていたからだ、それなのに、そこそこ上手くやっており、仕事もできるそんな人間だった。
至って普通の人間だ。
そして、最も自分が狼狽したのが、彼がそれぞれの女性と上手くいかなくなって分かれることになってしまった理由として、遠野があげているものとして、女性がある言葉を言ってくれなかったからだという。
「貴樹くん、あなたはきっと大丈夫だよ」と。
なんじゃそりゃー!
ってここで正直拍子抜けしてしまった。
たったそれだけのことで…
おうおう、時間返せ、そして映画見たときの感動返せ!って正直カッとなってそう思ってしまいました。すみません。

変形されたセカイ系

拍子抜けしてしまってモヤモヤしていたんですが、そのモヤモヤがすっきりとまとまる概念に出会った。それがセカイ系だ。
上記にあげたセカイ系概念の引用には「世界の危機」「世界の終わり」といった物騒な単語がならんでいるが、秒速5センチメートルにはそれはない、だから完璧なセカイ系とは言いがたいのかもしれないが、これは変形されたセカイ系小説なのだと思った。
「世界の危機」「世界の終わり」もないが、自分が世界にという表象に立ち向かってゆくためには、女性の「彼が考える理想的な形としての」援助無しには立ち向かうことができず、女性を世界像の1つの形式として受け入れることができないという脆弱な自己像にて成り立っている。
と自分は思った。
小説版の主人公は、作者がそう考えていようといまいとそのように、結果的に描かれてしまっており、一貫して流れていたと自分が勝手に思っていた、明里への切実な想いというのが、実が、それ無しには、生きてゆけないような強い気持ちではなく、ただ自分が世界の中にいても良い理由探しの方便として使われているに過ぎない。
つまり、秒速5センチメートル小説版の「秒速5センチメートル」が変形された一種のセカイ系であり、セカイ系の範疇にあるものでしかない。
そうわかったとき、脱力してしまった。
まだ、映画版の方がよかったと。

秒速5センチメートル再び

だからといって秒速5センチメートル小説版を否定しなくてはいけないというとそうではないと思う。この小説も、そういう人生だって、あるよね。という、非常にリアルな恋愛の一形態としてとらえることもできるからだ。
ただ、著者は映像作家であり、決して物書きさんではないから、どこまで情報を織り込むべきか、はっきりしたイメージを持っていなかったのではないだろうか。
映画は確かに非常に写実的で情報量があふれていた。しかし、小説は情報量が多ければよいというわけではない。映画の中の情報は、時間の流れがあるから、情報量が多くてもそれほど問題になることはない、しかし、小説は情報量が多くても、読み手がゆっくり読んでしまうことができるから、時間の速度を作者側でコントロールすることができない。そのことを著者はあまり深く考えずにいろいろと織り込んでしまったのではないだろうか。
ただ、最後の一文に唯一希望を我々は感じることができる。

この電車が通り過ぎたら前に進もうと、彼は心を決めた。