評論における参照情報の深さについて

写真とブログの内容はあんまり関係無いかな。

何かを批評・評論するときにおいて、いつも悩むことがある。
それは、評論・批評する題材についてどれほどまでに参考情報を深掘りすべきなのかと言うことだ。
評論・批評するのには、他人の創作物であることがほとんどであるが、創作物だけを頼りに論評・批評すれば良いのか、迷ってしまう。
たとえば、サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の書評を書くとしよう。
その時には、もちろんサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」を読むのは当然として、サリンジャーについて調べる必要はあるのだろうか。サリンジャーが「ライ麦畑で捕まえて」を書いていたときの心理状態に迫る必要はあるのだろうか。また、他の批評家たちが「ライ麦畑で捕まえて」に対するどのような批評を展開しているのかをどの程度調べて批評を展開する必要があるのだろうか。

自分が昔関わっていた哲学の世界で論文を書こうとしたら、自分が考えている問題について、他哲学者が書いた論文は一通り、できうる限り目を通す必要があった。なぜか。もしかしたら、自分の考えている問題点と、おおよその回答が他の哲学者によってなされており、いざ論文を書き上げたと思ったら「それなら○○がすでに同じようなことを言っているよ」なんて言われたら目も当てられない状態になるからだ。

そのように考えれば何かの作品を批評するときにも、批評の対象が先代たちにどのように扱われてきたかを調べつつ、できうる限り必要な情報を収集しつつ評論を展開するというのは、あながち間違った行為ではないように感じる。

しかし、自分は、いざ評論を書こうと思い至ると、ある種のジレンマに陥ることになる。
やはり、評論の対象にしている作品(アニメだろうと、小説であろうと、映画であろうと)を受け取って、それに対して様々な角度から、自分なりに思考しなくては行けないのではないかと思ってしまうのだ。仮に、自分の評論の受取手がいたとして、その受取手が絶対にアクセスできないような、その作品に対する情報があったときに、その情報を参照にしつつ評論を展開するのはフェアなことなのだろうかと常々考えてしまう。
もし、ある作品に携わった人から、その作品の裏情報を密かに仕入れ、それに基づいて画期的な論点から批評を展開するのが、評論の受け手に対してフェアな方法だと言えるのだろうか。

もちろん、見せ方によっては、こんな情報があって…ときちんと説明することによって、評論に対してある種の説得性を持たせることはできると思う。だが、その行為に対して自分はモヤモヤするのだ、受け手には「原理的に」知り得ない情報を握っておいてそれに基づき評論を展開することに対して。

しかし、ある作品を、ある作品だけを観て、評論を展開するのはなかなかに難しいと言わざるを得ない。
その作品に関する情報が否応なしに目に飛び込んできてしまい、無意識の中にすり込まれてしまい、それに基づいて評論が展開されてしまうこともあるだろう、それは避けがたい。

ただ自分は、評論というものを「フェア」に扱いたいのだ、評論の受取手に対して、作品に対して、そして、自分に対して。
常にそのことを考えて、評論するようにしている。
しかし、なかなかに難しいんだよなぁ
どうしてもいろいろ調べまくってしまうわけです。
ただ、調べれば誰でも調べられるような情報をチョイスすることで、ある種の透明性は確保できるようにと、いつも思っている。