「風の歌を聴け」におけるコミットメントとデタッチメント

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「風の歌を聴け」は、村上春樹のデビュー作である。

内容を簡潔に述べれば、大学生の<僕>が<僕>の地元に帰省し、なじみの<鼠>というあだ名の男性と、とあるバーのトイレで酔いつぶれていた小指のない女の子とを知り合い、それぞれの人生の問題をただ受け止めるという内容である。

この作品の中で<僕>は、非常にドライな立場を堅持する、鼠に対しても、小指のない女の子に対しても、積極的に彼らの問題について介入することを避け、常に傍観者の立場を取る。しかし、完全に傍観しているかというよりかは、時にはアドバイスめいたことを言ってみたり、そばに寄り添ったり、必ずしも突き放すような態度は取っていない。

鼠は、その作品の中で多くは語られていないが、どうやら学生運動に失敗して大学を中退して、地元に戻ってきている。しかし、彼の実家はそこそこ成功した金持ちであり、そのために鼠は特に働かなくても生活ができているが、鼠は金持ちのことを憎んでおり、彼の口癖は、「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」である。
それに、彼自身、作品中では軽く触れられている程度ではあるが、女性関係の悩みを抱えているようで、決して人生が上手くいっているとは言えない人物として描かれている。
(しかし、決してその造形は、暗い人物として描かれることなく、村上春樹流の気取った人物像として描かれており、決して彼が深い悩みを抱いて生きているようには、一見してわからないような造形になっている)

もう一人の主要登場人物である、小指のない女の子は、鼠と<僕>が入り浸っているジェイズバーというバーのトイレで酔いつぶれており、<僕>が介抱することですることで知り合った女の子だ。しかし、彼女が彼女の部屋で朝目覚めたときに、<僕>が隣で寝ていたために、あらぬ誤解を<僕>に対ししてしまい、一時<僕>と疎遠になるのだが、何故かあるときに思い直し、<僕>と親しくなる。彼女は左手の小指がない、子供の時に掃除機のモーターに巻き込まれて小指がはじけ飛んだからだ。そして、彼女の家は、父親が癌によって亡くなっており、それが元で家族が空中分解したようにバラバラになってしまっている。

このように、この作品に登場する、<僕>と関わる人物は、決して全面的に手放しで、一般的に言うような幸せとは無縁の状態にある。そんな二人に対し、<僕>は積極的にその状況の解消に対する手助けをしようとは決してしない。彼らとは確かに同じ時を過ごすが、アドバイスめいたことは一切言わず、彼らの生き方を受け止めるだけである。
確かに、ここだけを見れば、<僕>の態度は、デタッチメントだと言われても仕方がないものである。

しかし、この、風の歌を聴けと言う作品には、きちんとコミットメントが含まれている。
それは、<僕>の態度によるものではない、この作品のコミットメントは、作品の終わりの方にやってくる。

この作品に時折登場する、ラジオN・E・BのDJが紹介する手紙と、それに対するそのDJの返礼がこの作品のコミットメントを描いている。

どういう場面かと言えばこうだ。
ラジオのリスナーからの手紙がDJ当てに届く。そのリスナーは病院で入院生活を送っている女子校生で3年間も寝たきりになっている、しかし、彼女はそんな状況に対しても前向きな姿勢を持ち続けている。
そんなリスナーからの手紙を読んで、DJはこのようにいう、

僕がこの手紙を受け取ったのは昨日の3時過ぎだった。僕は局の喫茶店でコーヒーを飲みながらこれを読んで、夕方仕事が終わると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。君の病室から港が見えるんなら、港から君の防湿も見えるはずだものね。山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りかが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のものある。実にいろんな人がそれぞれに生きてきたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久しぶりだった。でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。
僕は・君たちが・好きだ。

DJは街灯りを比喩として、街に住んでいる人たちはいろんな人がいるが、みんなは結局の所は同じであると捉えている節がある、だからこそ、リスナーに対して「君が好きだ」とは直接言わず、「君たち」と全員を同じように捉えて言っているのである。

それは、このDJの部分の少し前に、<僕>が鼠に対して、話す内容に符合している、<僕>は「条件はみんな同じ」であるという、そして「並外れた強さを持った奴なんて誰もいないんだ」「みんな同じさ」という、<僕>の表現は「みんな同じである」という言及止まりではあるが、DJはもっと踏み込んで、「好きだ」という、これが、この作品のコミットメントの部分である。

人間どんな存在であろうと、詰まるところ「同じ」な存在である。その表現こそが、何か欠けてしまった人々、鼠、小指のない女の子に対する、<僕>のコミットメントなのである。

おそらく、このDJの発言と、その直前にある、<僕>の発言のつながりに関連性が見いだせないと、なかなかコミットメントとして認識できないのではないかとは思うのだけれど、自分は、この「風の歌を聴け」という作品の中にもコミットメントがきっちりと埋め込まれ、そして、それが機能していると思っている。

<僕>の態度は、デタッチメントだが、作品全体を通して表現されている、何かが欠けてしまった人々に対する眼差しは、確かにコミットメントのものであるのだ。

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