蹴りたい背中の書評

初めて「蹴りたい背中」を読んだときには、正直それほど深い感想を持たなかった。

まぁ、村上春樹の作品に似た、読みやすい文章だなぁと思ったくらいだ。
最近、久しぶりにこの小説を引っ張り出してきて読んでみると、何となく違った感想を抱くようになってきた。
その感想をなるべく正直に書こうと思う。
書けないかもしれないけれど。
この小説を初めて読んだときには、なんかこう変な風に構えて読んでしまったところがあって、「蹴る」ということの意味は何だとか、文章の構造とか、そういった本当に書評的な視点ばかりで作品を読んでしまい、非常にプレーンな視点で作品を見ることができていなかったと思う。
しかし最近もう一度読み返してみて、ある一文に目がとまり、なんだかすっと気持ちに整理がつくような、そんな気持ちになった。
物語の本当の最後の方にこんな風に書かれていた。
「同じ景色を見ながらも、きっと、私と彼は全く別のことを考えている。こんなにきれいに、空が、空気が青く染められている場所に一緒にいるのに、全然分かり合えていないんだ。」
この一文を見たときに、思った。
あ、こりゃただの恋愛小説じゃん。って。
もちろん「ただの」という言葉に悪気や皮肉はなく、本当にただの恋愛小説と感じたのだ。
最初の頃は、この小説を小難しい視点からしか捉えていなかったので、こんなストレートな言葉を見落としていたのかもしれない。
他人と同じ景色を感じ、同じ気持ちを抱きたいという気持ちは、きっと恋愛感情だ。
この小説では、この一文に至るまでに、蹴りたいだのなんだのいろいろと小難しい心理描写が書き連ねられているが、結局いいたいことはこの一文につきると思う。
では、なぜこの描写が新鮮なんだろう。
数ある、恋愛小説はほとんど同じ公理を出発点としている。
「すべての人間には恋愛感情がアプリオリに存在している」
つまり、すべての人間は恋愛するものであり、恋愛感情はすべての人が教わらなくても自覚できる、という公理だ。
この公理を出発点にして、ほとんどの恋愛小説、少女漫画はスタートし、その物語のほとんどが、いかに恋愛するか、いかに愛すか、いかに愛されるかをいろいろな語り口でだらだら述べるというのがその構造だと思う。
普通の恋愛小説は、「蹴りたい背中」で語られたあの一文がすでに最初に共通理解として規定されているのだ-もちろん当然のことだから、あえて書かないのだろう-。
しかし、「蹴りたい背中」はあえて、あの一文を一番最後に持ってきた。
そこが決定的ににほかの恋愛小説とは違うんだと思う。
近代人間像の中では、多くの概念がアプリオリなものとして規定されてきた。
たとえば母性本能とか、人間理性といったようなものだ。
恋愛感情も当然アプリオリなものとしてとらえられていたから、当然その前段階が「語られる」ことはなかった。その語られることのなさ加減がアプリオリの意味なので当然のことだ。
しかし、蹴りたい背中では、そのアプリオリな感情が表出するまで、蹴りたいという感情によって表現されており、そのことは、恋愛感情が実はアポステリオリなものであることを示唆している。
結局恋愛感情に至ることに関しては変わりがないのだが、アプリオリかアポステリオリかでは大きく違う。
この小説の良さは、きっと、今までアプリオリだと思われてきたものが実はアポステリオリなものではないのか、とあえて問うてみたところだと思う。
結局の着地点は変わらないが、あえてそこを問うてみたところはとてもすごいことだと思う。
ほかの恋愛小説があえて踏み込まなかった、いや、そんな地点があるとも思ってもみなかったところに光をあててみたところは本当に評価に値することだ。
結局着地点は同じ、いや、紆余曲折あってここに着地してきて、あの一文を見たときに、自分は、こんなのただの恋愛小説だって思ったんだと思う。
本当の意味でただの恋愛小説なんだと思う。
そして、恋愛小説が恋愛小説として成立するまでの過程を、ほかの恋愛小説が全く書きもしなかったその過程をあえて書いてみたところがこの小説のすごいところだ。