秒速5センチメートル-鬱エンドについて考えてみる-

激しくネタバレしているのでご注意を。
写真は、最後の場面。

※注意、超長いです。
この文章を読むときには、部屋を明るくして、画面からから離れて読んでください(1.5kmくらい)
秒速5センチメートル見た後、いろいろ気になっていたので、ネットで秒速5センチメートルの話題を調べていたら、この作品の最後が鬱エンドっていわれていることを知った。何で鬱エンドなのかなーと言うことを考えているうちに、何となく考えがまとまってきたような気がしたので、何となく書いてみる。
まずは、自分の、秒速5センチメートルの最後のとらえ方から。
あの最後を見たとき、何じゃこりゃーって確かに思った。肩すかしとも思った。でも、鬱な感情は沸いてこず、むしろ穏やかな感じって言うか、主人公に対しては鬱を連想させる感情を最後に抱かなかったと言うのが正しい。それは、最後、主人公が納得したように笑ったからだ。主人公が納得しているのであれば、自分の入り込む余地はないなーと。もし、主人公が取り乱したり、泣いたりしたら、そりゃ悲しくも思ったかもしれないけれど。だから、この作品、確かにハッピーエンドじゃなかったけど、バッドエンドというわけでも無く。いろいろ不満はあるけれど、鬱にはならないなーと。
以上、自分の感想。鬱か鬱じゃないかという部分での。
ま、鬱っていう表現はちょっと誇張しすぎかなとも思う。てか、このアニメ見て鬱になるって、どんだけ心が脆いんだよ、とか思ったりするんだけれど、作品に対する感じ方は万人によって違っていて当然だし、表現方法も異なっていて当然なので、そこはまぁ、あまり指摘してもしょうがない。
でも、鬱だと感じた、もしくはネガティブにとらえた人たちが多かったのは事実であって、それは何でだろう。と思ったのが今回の出発点。
この作品、主人公と主人公の想い続けている女性が結局心がすれ違ったまま最後を迎えるという、まぁ、言ってしまえばバッドエンド的な形で話を終える。だから鬱エンドなのかとも思っていたけれど、主人公と主人公が想い続けている女性との関係がうまくいかないまま最後を迎える作品はこの秒速5センチメートルだけじゃないし、極論でいうと、ハッピーエンドでない作品は全部鬱作品っていうことになる。しかし、最後が不本意な形で終わった作品がすべて鬱エンド作品と呼ばれているとは聞かないし、逆にハッピーすぎて鬱な作品もあるみたいだから(耳をすませばとか)、不本意な形で終幕した本作品が持ち合わせている普遍的な形質が基になって鬱エンドと言われているわけではなく、本作品の構成に何がしかの問題があるんじゃないかと。
では、なぜに本作品が鬱エンドと言われているのか。
本作品が鬱エンドなのは、最後が不本意な形で幕引きしたからでなく、本来あるべき物語の語り方から逸脱したから、視聴者のある意味期待を裏切ったから、鬱エンドになったのではないか、と考えている。
この考えを推し進めるために、もう一度、秒速5センチメートルを見てみた。
すると、一つの事実にぶち当たった。
主人公は明里に対して、一度も自分の想いを伝えていないという事実に。
それとなく思わせぶりな描写は出てくるが、お互いがお互いの想いを伝えたり、二人が将来を約束したりする場面が一度もない。
第1話において、キスをする場面があるが、それ以上ではなく、その後朝まで語り合ったというモノローグは出てくるが、それ以上の関係を伺わせる描写はない。
第2話で、主人公の夢には、明里らしき女性が登場するけれど、顔がはっきりと描かれていないので、はっきりと明里だとわかる場面ではない。
第3話においても、ずっと何かを成し遂げたくてがむしゃらに働いてきたという説明はなされているけれど、その目標が、明里と幸せになることだという明確な説明はなく、最後の最後まで、主人公と明里が気持ちを共有したような場面は描かれずに終わる。
何となく、それに類するやりとりは、第1話の最後、二人が別れるときに、明里が、「貴樹君は、きっとこの先も大丈夫だと思う。絶対」という場面だが、想いを伝えるにしては難解で遠回りで、これをうまく解釈できる中学生男子なんているわけ無いだろう。これで想いを伝えました、と言われたらちょっと当惑する。
非常に気になるのが、第1話でお互いが渡し損ねた(主人公の場合は途中で風に飛ばされて無くしてしまったんだけど・・・)手紙の存在だ。あの手紙には何が書かれていたんだろう。お互いの気持ちを伝える手紙だったのか否か。どちらにしても、想いをお互いに伝えずじまいだったことには変わりがない。
そんな感じでストーリーが展開し、第3話になって、明里らしき女性と踏切ですれ違う、そこで主人公は思う「今、振り返れば、きっとあの人も振り返ると、強く、感じた」。
しかし、踏切に電車が入ってきて、2本の電車が通り過ぎ、踏切の向こうを見てみると、そこには女性の姿は無かった。そして話が終わる。
おそらく、ここですべての人が、明里らしき女性も振り返って主人公のことを待っていると思ったに違いない。
それはある意味、このストーリー展開を考えれば、というか、無意識にすり込まれれば、当然出てくる帰結だと思う。
想いを伝えることができなかった二人の間に、そう、奇跡が起こって、二人は再会して、想いを遂げる。全く想いを伝えることが無かった二人を語る物語の展開を考えるならば、当然そう思われるのだ。もしココで何かしらの変化が無ければ、このままじゃん!全員が、無意識にそう思ったに違いない、いや、いろいろな物語を知っている視聴者なら本能的にそう感じたと思う。しかし、ここですら物語は動かず、そのまま終幕へ。
ま、なんて言うんでしょ、これじゃあ視聴者の本能が満足されずにフラストレーションがたまって、一部の人に鬱だと感じられても仕方がないかなと思った次第。なんだろ、通常のストーリー展開から逸脱しているんだよね。当然こうなるだろう、って視聴者を何となく誘導させていおいて、最後何も出ませんでした。ってなるんだからそりゃ一部の視聴者から反発も出るわな。変なたとえだけど、一見マジシャン風の人が、鮮やかな手さばきでカードを見せたりしてみる、最後までつきあってみても手品を全くしない。聞いてみると、「は?手品やるなんて誰が言ったんですか?」みたいな。そりゃ、そんなこと言ってないかもしれない、でもマジシャン風の姿していて、すげーカード裁きなんだから期待するじゃん!みたいな。
徹底的にすれ違う二人に、最後奇跡を期待するのは、この作品のストーリー展開上致し方のないことであって、そこをわざとずらしてきた監督は、意地悪だと言えば意地悪かも。
監督からしてみたら、この方が、物語としてリアルと言うことになるんだと思うけれど、物語には物語の暗黙のルールみたいなものがあって、そこを微妙に壊すからこそ、おもしろいのであって、全くひっくり返してしまうと視聴者が置いてけぼりになってしまう。これはTV版エヴァンゲリオンの最終話にも言えることだけれど、監督が暴走すると、困るのは視聴者みたいな。その視聴者の反応の1つの形態が鬱という表現につながったのではないかと思われ。
(自分は、TV版エヴァの最終話好きです。なぜなら、希望があるから)
でも、実際には世の中なんてこんなものだよねーみたいな監督の気持ちもわからんではない、でも、それを主張したいのであれば、物語という形ではなく、ドキュメンタリーという形を取ればいいのであって、物語にした以上、その気持ちを物語り上できちんと展開して回収する必要があるんじゃないか、とも思ってみたり。
じゃぁ、自分はこの最後をどうとらえたかというと、良くも悪くもとらえませんでした。何度も言っているように。
この作品には、最後、希望がやってくるんだよね。そのことは主人公の表情みてもよくわかる。
だから、この最後は良い最後だったと思う。
自分は、物語の作法とかちょっと勉強したりしたけど、そういうのあんまり気にしないタイプだし。
大切なのは、その物語の最後に希望があるかどうか、あーあの二人どうったのかな?って思わせる何かだと思う。この作品には、かろうじて最後それがあった。だから、ある意味良い作品だと思った。ただし、物語の展開とその突き抜け方があまりにも強引なので軽い反感は覚えましたけれどね(笑
でも、自分の考える良い作品の条件って、希望があることと、その後もその作品についていろいろ考えさせられてしまう後味だと思ってます。その2つがあったので、肯定的に作品をとらえていますが、鬱エンドと呼んだ人に対しては、何となくわかる気もする、という考えです。
ま、もし、最後明里が踏切の向こうで待っていたら、なんじゃこりゃー!って叫んでいたと思うよ。旦那はどうすんだ?!結婚しているんだろおまえー!みたいなことを思ったと思うし。やっぱり、踏切の向こうで待っていなかったのが正解。待っていたら、お互い先に進めなくなっちゃうんだもん。その先に進んでゆける力を持っているのが主人公でしょ。だから、明里は第1話で、「貴樹君は、きっとこの先も大丈夫だと思う。絶対」って言ったんだろう。そう信じたい。
歩め!

主人公が、視聴者に見えないところで、明里に対し、自分の想いを伝えたのではないか、という疑念もあるわけではないけど、この作品の元ネタになっている山崎まさよしの「One more time, One more chance」の歌詞には「言えなかった、好きという言葉を」というものがあり、まさしくその歌詞が流れる場面では、第2話に登場した主人公のことを好きだった角田という女の子の姿が映っているの(角田は主人公のことが好きだったが、主人公にはほかに好きな人がいるとわかってしまったので結局想いを伝えられなかった(いや、言えなかったと言うべきかも。ある意味、想いは伝わっていたような気がする・・・))で、あたかも好きと言えなかったのは角田だけのように見えるが、これは主人公も明里も含めてと考えるのに無理は無いと思う。そう考えれば、主人公、角田、明里、全員が「好き」という気持ちを伝えずに終わってしまっている。
※※
リアリズムが行きすぎてうまく物語の中で消化できていなかった存在が、主人公が3年つきあって、メールを1000回やりとりして心が1cmしか近づけなかった、水野さんという女性だ。明里のことを想い続けてきた主人公が、角田のことを受け入れなかった主人公が、形だけかもしれないが、この清水さんという女性とはおつきあいをしている。カットインした場面の中に、ベッドを共にしている場面があり、ベッド脇のサイドボードに置かれためがねの形状から、清水さんだと判断できる。つまり、主人公は明里のことを想ってながら、清水さんと寝たことになる。確かに主人公も普通の男性なのだから、ほかの女性と恋愛することはあるだろう、それがリアルって言うものだろう。しかし、この清水さんの登場の仕方が、どうも唐突で、まるでリアルを演出するためだけにわざわざ出てきてくれました(友情出演)みたいな状態になっていて、非常になんて言うんだろう、当惑しました。ここは1つ、主人公お得意のモノローグで「今までいろいろな女性とつきあったが、心は1cmぐらいずつしか近づかなかったんじゃないかとさえ思える」みたいな感じでさらっとまとめるべきだったと思う。変に実態としての清水さんが出てきたので、最後の明里に対する気持ちのフォーカスが若干ぼやけてしまったように思える。