終戦記念日に思うこと

1945年08月15日 日本は戦争に負けた。

それは揺るぎない事実であり、そのことを、毎年の8月15日に思い出すために、様々なメディアで敗戦について、平和についての特集が組まれることとなる。
そのことについては、異論は無いのだが、何か違和感を感じずにはいられない。
敗戦があった以上、開戦があったわけで、各種メディアはその開戦についてはあまり多くを触れようとしない。

確かに、太平洋戦争に至る過程は長く、複雑で、多面的で、内外の事情を非常に良く考慮しなくては理解の難しい内容なのではあるが、開戦無くして敗戦無しとなれば、必ずや何故日本は開戦に至ったのか、というテーマについても深く掘り下げてみるべきだと思う。

何故日中戦争に至ったのか、何故枢軸国側に日本がついたのか、何故太平洋戦争開戦という大博打に打って出たのか、これを、確かに複雑な事象ではあるが、きちんと語る必要があるのだと思うのだが、それがきちんとメディアで流されたところをあまり見たことがない。
敗戦とそれに伴う、連合国の占領、そして平和に至る道など、終戦に学ぶことは多い。

しかし、同時に、何故開戦に至ってしまったのかを掘り下げることは非常に重要である。

ただ、それは、非常に難しいことに違いない、何故なら必ず責任論がついて回るからだ、終戦後の、終戦に対する責任論については、東京裁判である程度判例が示され、それがコンセンサスとなって、それ以上の追求が行われないというのが通常の考えだと思うが、太平洋戦争そのものの開戦の責任だけでなく、どうして、太平洋戦争まで開戦しなくてはならなかったのか、という事実をきちんと捉え直し、過去と未来に向き合うことが、今は必要なのでは無かろうか。

と、先ほど、ふと思ったりした。

戦争中のエピソードは確かに、苦しく、凄惨で、それは我々の胸を苦しめる。
しかし、開戦まで至るエピソードというものには、苦しく、凄惨なエピソードはそれほどなく、そのほとんどが、きちんとした熟考の元で決定されたことであり、緊急避難的な咄嗟の判断で決められたものでないはずである、だからこそ、その意志決定の過程をきちんと浮き彫りにして、何故日本という国が昔戦争に至ったのかを、きちんと垂直と水平の時系列で考えてみる必要があるのではないだろうか。そこには、感情論ではなく、理性で向き合わなくてはならない何かがあるはずである。おそらく……

最後にとってつけたようで大変申し訳ないですが、
今日の日本の繁栄の礎となった、多くの人々に100パーセントの感謝と、冥福を祈って。