社会的な生き辛さについて


ねこ

快適に社会を生きる必須条件って?

どこかのだれが言っていたのか忘れちゃいましたが、「日本の社会はマッチョな男性を基準に作られている」という言葉がありまして、これを聞いたときに、「あーなるほど」と思ったものです。

確かに、日本の社会ってマッチョ(肉体的にも精神的にも)な男性を基準に作られているなーと感じることがあります。

裏を返せば、日本という社会の中では、男性で有り、精神的にも肉体的にも強くなければ生きていけないということになる訳です。はい。

これが、日本社会を快適に生きる条件です。
男性で、精神的にも肉体的にも強い人には至極簡単な基準ですが、女性であったり、身体的なハンデがあったり、精神的にやられたりしていると途端に生きづらくなってしまうわけです。
そして、男性といっても、全部の年齢幅ではなく、所得を生み出せるレベルでの年齢幅となり、所得を自ら生み出せない男性もマッチョとは見なされなくなります(例:赤ちゃん・老人)

ふと辺りを見渡してみると

確かに、これ、言えているんと思うんですよ。
自分の周りだけ見てもそうです。

たとえば会社、
「病気一つせず」
「精神的にも強く」
「何事も文句言わずにひたすら職務をこなし、家庭なんか顧みない」
というのが暗黙的に会社から求められ、この条件を満たした人が出世していったり、良い評価を得たりします。
もちろん大声では会社は言いませんよ。
大企業ともなればこんなこと言った途端に叩かれますからね。
中小企業とブラック企業はちょっとこんなこと言ってくるかも。
少しでも病気で休もうものなら嫌み言われるとかね。
上記の条件って、やっぱりマッチョな男性像ですよね。

女性(すべてではないにしろ)であったり、男性でも身体が弱かったり、精神的にも打たれ弱かったりしたら、もう少し下の評価になってしまう。

そして、普通の公共の場でもそうで、電車の中でも、赤ちゃんが泣いたりするだけでネットで大問題になるような社会です。

そんな雰囲気がずーっと続いてきたのが日本の社会だと思っています。
だれが悪いとか、誰のせいだとか言うつもりは無く、自然にこうなってしまったのかなと。

それに対し女性は

一部の人に忌み嫌われているフェミニストですが、これは、ある意味マッチョ男性優位社会に対する攻撃的防御策だと思うんですよね、極端なフェミニストって、核戦略で言う、相互確証破壊のような感じ。
マッチョ男性優位社会という核爆弾に対抗するには、極端な攻撃的フェミニズムで対抗するしかなかったわけで、お互いに最終兵器を握ることで、デタントのみちを模索するしかなかったというわけです。

しかし、未だにお互いに対する恐怖心から、完全なデタントと融和には至っていないのが現状ですが、これからどうなるんでしょうね。
一部の人は先鋭化してそのまま闘争を続けるか、緩やかなデタントが進行し、マッチョ男性優位社会が消えて無くなるのか。

自分はこう思う

マッチョ男性優位社会って、高度経済成長の中では上手く機能していたと思うんですが、一億国民総中流社会とはお世辞にも言えなくなってしまった今、破綻していると言っても過言でないと思います。
経済を牽引していったという実績が伴っていたマッチョ男性優位社会は、確かにそれでも我慢するに値する社会だったんでしょう。

しかし、現在、マッチョ男性といえども経済的な繁栄をもたらすだけの力を持ち得ない状態になっています。本人たちの努力如何に関わらず。その中で、マッチョ男性優位の精神的遺産だけが残り続けるのは不合理名用に思えます。おそらく、今後日本が緩やかに衰退していく家庭で、マッチョ男性優位の社会も緩やかに衰退し、融和や寛容といった社会が生まれるか、もしくは、全く逆の、どんな属性の人間もお互いがお互いに闘争し合う弱肉強食的社会が生まれるのではないかと。

個人的には前者であって欲しいものです。