タイトルに奥深いものを感じる
「ライ麦畑でつかまえて」はハッキリ言って好きになれない小説だ。
ずっと前から胡散臭いものを感じていて、敬遠していたのだが、会社の同僚がこの本をくれたので必然的に読まなくならなくてはいけなくなったのが、読むきっかけだった。
その同僚が、「主人公の気持ちがよくわかる」と言っていたのが、非常に印象的で、それも読むきっかけになった。(今考えれば、その同僚は私生活やらに問題を抱えていたので、ホールデンに共感的な気持ちになったのかもしれない)
タイトルは誤訳
この小説の原本のタイトルは「The Catcher in the Rye」であり、直訳すれば、「ライ麦畑で捕まえる者」と言ったところだが、野崎孝の訳で「ライ麦畑でつかまえて」と訳されており、それが一般的に通用する本の日本語タイトルになっている。この訳、完全に間違った訳である。ちなみに、最近この小説を訳した村上春樹は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」とそのままカタカナにしているだけである。
きっと、直訳ではありきたり、かといって「ライ麦畑でつかまえて」では誤訳そのまんまになるから、悩んだ末にカタカナにしたのだろう、きっと。
誤訳でも言い得て妙
最近、この「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルについて、ふと思い立ち、よくよく考えてみると、言い得て妙だな、と感じるようになった。
決して正しくないけれど、小説の文意というか、書かれていることを深読みすると、このタイトルでもあながち間違いでないのではないだろうか、と思うようになった。
そう感じさせたのを説明するには、この「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルが出てきたであろう場面を説明する必要があるかと思う。
このタイトルが出てくるきっかけになった部分は、主人公のホールデンが、妹のフィービーに、
「けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ」と言われ、将来なりたいものについて聞かれたときに、主人公のホールデンが答えた内容がもとになっている。
「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけれど、他には誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かがその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね。」
村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」単行本P286-287
このホールデンの台詞を読んだ限りでは、「ライ麦畑でつかまえて」というのは、明らかに誤訳である、英語の誤訳でもあるが、ホールデンは捕まえる側になりたいといっているのだから、「つかまえて」では意味が逆転してしまう。だから誤訳なのだが、実は非常に味わい深い誤訳というか、わざとこの誤訳にしたのではないかと考えてしまう誤訳だと思う。
というのも、ホールデンはやることなすことすべて上手くいかない、勉強もスポーツもダメで、成績が悪くて、すぐに学校を転校させられてしまうような人物で、そのことをホールデン自身よく知っている。それを知っていながら威勢を張って生きているのだが、威勢の張り方もずれていて、その「ずれ」も自分なりに把握していて、それも知っていて、威勢を張っているというかなり可哀想な部類の人間なのだ。
そんな人間が、将来になりたいものを聞かれて「ライ麦畑で捕まえる者」になりたいのだ。と言う。
広いライ麦畑で遊んでいる子どもが、崖に落ちそうになっているのを助ける役目を担いたいと。
これはまさしく、ホールデンが自分に対して他人からしてもらいかったこと、そのものなのではないか。
ライ麦畑が社会であり、崖が落ちこぼれの象徴とするのであれば、その崖から落ちそうになっている自分を「捕まえて欲しい」という切実な思いから「ライ麦畑でつかまえて」という心の声があったのではないか。
だから、このタイトルを今見てみると、ホールデンの台詞を逆手に取った、ホールデンの本当の気持ちをきっちり表現した、とてもよいタイトルだと思う。
野崎孝氏はそこまで考えてこのタイトルにしたのかどうかは、知らないけれど…