- 作者: 綿矢 りさ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2005/10/05
- メディア: 文庫
「否定から肯定への物語」これが「インストール」を読んだとき、最初に出てきた感想だった。
それは、「金持ちなんか、皆、糞くらえさ」から「僕は君たちが好きだ」で終わった、村上春樹の「風の歌を聴け」とリンクするものがある。
無気力な女子高生が、ネカマの小学生と出会って、バーチャルでありながらも現実を少し垣間見て、(少しでも肯定的な認識の方へ)認識を改める、といったところが、まさしく「否定から肯定への物語」なのだと思う。
成長小説とかいわれたりするんだろうか、この物語は。と思ってもみる。
そういう意味では、非常にすがすがしく描かれており、登場人物の女子高生にしろ、小学生にしろ、その親たちにしろ、小説的な矛盾や、非現実性といったものはない。
しかし、本当にこんな女子高生がいるんだろうかとおも思ってみたり。しかし、本当にいそうな女子高生が、本当にやっていそうなことをやっていてもつまらんだろう。どこにもいなさそうな女子高生が、特にそんなことしていなさそうなことをやることに小説的リアリティが存在しているのだから、そう思わせたこの小説の勝ち。少なくとも俺よりは勝っている。
ドキュメンタリーだったらそういうのもありかもしれないけど、これは小説。
小説だから許されていたキャラクター構成も、ストーリー構成では許されない。
最初に学校の場面から始まり、蹴りたい背中でも登場した、集団生活に対するルサンチマンみたいな感情が、うまくまとまらないまま、エンディングを迎え、もとの自分に戻ってゆく(今までとは少し違う)。
学校から始まる必然性がない。
確かに女子高生の生活は、学校生活が中心となるから、中心的な舞台にネガティブなものが存在し、それをある意味で超克することで、前進してゆくという構図は不可避なのかもしれないが、この小説では最後の前進部分に対する必然性が、学校の件の部分には存在しない。
だから、学校から始まるストーリーは強引すぎる。
もし、集団生活に対するルサンチマンを昇華させる形でストーリーを展開させるのだったら、もう少し、学校のキャラを造形して、そのキャラクターをストーリーに介入させる形でないとストーリーは成立しない。
その部分が、インストールを読んでいて不満だった点だ。
文章も、キャラもなかなかいいのに、ストーリーの必然の部分が、ある意味読者の期待を裏切りすぎていて不満だったというべきなのか。
なじめない集団生活者の中に、そのルサンチマンを変形させる存在として、ニナガワが存在しており、
ルサンチマンの方向性を、ニナガワへと偏向することにより、ハツとニナガワの物語を語ると同時に、ルサンチマンからの脱却を試みるという巧妙な手法が、「蹴りたい背中」には投入されている。
だからこそ、蹴りたい背中は、途中で学校生活の話が、ニナガワとの話にすり替わっても、違和感がなかった。その部分が、インストールとは違う。
しかも、蹴りたい背中は、「蹴る」という身体言語を通じ、「蹴りたい」という感情の変化を、微妙ながらもうまく表現に取り入れることで、それをハツの感情変化を語るものとして利用されている。それが巧妙なのだ。
しかし、インストールは、そういった部分がなく、「私変わっちゃったかも」という自己認識によって完結しており、蹴りたい背中よりも先の感情で締めくくられているのだが、それは語りすぎというものだろう。
ただでさえ短い小説なのに、蹴りたい背中の先までいってしまっているのだから、消化不良感は回避しようもなく読者に襲いかかる。
読んだとき、最後の混乱はこういうことだったのだ。
あれ、もう終わり?最後のほう、展開早すぎ。
みたいな。
そうなって、おいていかれて、小説の中ではどんどん話が展開されてもな。という感じ。
その分、蹴りたい背中では、「蹴る」の意味の変化を通じて、感情変化を見せているが、その変化を見せるだけで話は終わる。つまり、ハツ自身はその変化に、おそらく、まだ、気づいていない。
その部分の先読み感が、おそらく、大人の読者に、少しの優越感と、少しのノスタルジーと、若者への嘲笑と嫉妬を産んで、なお、その先にある爽快感を産んでいるのだと思う。
だから、蹴りたい背中はよい小説なのだ、そういう意味での延長線上で語ることを許されるのであれば、インストールもまた、よい小説なのだと思う。
しかし、インストールだけを読んだら、そう思っていたのかは、果てしなく疑問で。
自分としては、読んだ順番が幸いしていたというべきなのか、どうなのか。
自分に、これだけ考えさせて、書かせた小説なのだから、自分にとって、すばらしい小説であったはずだ、と。