自分は宇野常寛なる人物が、評論家であることも、いや、存在していることすら知らなかった。
自分が読む書籍はそのほとんどはドキュメンタリーの類いであり、評論を読んだことすらなかった。
そんな自分が宇野常寛なる人物を知るきっかけとなったのは、NHKで特集番組が放送によってだ。そのことによって、彼の書いた文庫本「ゼロ年代の想像力」の存在も知り、文庫であったため購入してみたのが、彼の文字を読むことにつながっていった。
ネット上には、彼の文章の書き方が東浩紀の書き方に影響を受けていると言ったことも書かれていたので、最近の評論とはこんな感じで書かれるものなのだろうかとも思ったが、書き方が非常に断定的であり、重要な単語があまり深掘りされずその単語の持つ語感だけを頼りに話を進めているのではないかと言う気がしてならかなった。
そのため、宇野さんの著作を読んだときに、頭の中に「?マーク」がたくさん浮かぶ。しかし、それは、今後読み進めてゆくうちに納得できるのかもしれないと思いつつ読み進めるが、納得のゆく情報が得られないまま内容が展開してしまうこともままあった。もしかしたら、宇野さんが語るポップカルチャーに対し自分の知識があまりにも不足しているため、宇野さんが読者に対し、織り込み済みとして考えている知識が不足しているが故にこのような混乱が生じているのかもしれない。
そんな前提を踏まえつつ、宇野さんの書いた「ゼロ年代の想像力」の中の第一章から第五章まで、そして第十六章を読み、「決断主義」とはなにか、という問題に対して焦点を当てたいと思う。
宇野さんは、「ゼロ年代の想像力」の第一章において、ゼロ年代の考え方の基礎になっているのは「決断主義」であるという。宇野さんは、「決断主義」に至る流れを次のように説明する、
1995年代、丁度エヴァンゲリオンが流行った頃(いやもっと前から)人間の生き方を規定する「大きな物語(イデオロギー)」が機能しなくなり、「生きる意味」や「信じ得る価値」というものも希薄になってしまった。
つまり、我々にそれまでは生き方を示してきた何かが希薄になり、「自由だが冷たい(わかりにくい)社会」が出現してしまった。そのために、その時代社会的自己実現への信頼が低下してしまい、「行為によって状況を変える」ことから「自分を納得させる理由を考える」という解決を図った。そこで、社会的自己実現を行わず、行為によって状況を変えるわけでもない状況が出現する。それが「引きこもり」であると、宇野さんは位置づけ、その代表的作品として、エヴァンゲリオンを引き合いに出す。主人公である碇シンジは、自己の力で社会的自己実現を行わず、ひたすら「引きこもる」ことによって、世界が悪い、父親が悪い、と「自分を納得させている」だけの存在として描かれているのであると。
しかし、2000年代にはいると、9・11同時多発テロや、小泉改革によって、「引きこもっていたら生き残れない」社会が出現し、それに対応するため「生き残るために」、今までは「大きな物語」が与えてくれた、行動に対する理由が無くとも、究極的には無根拠であることを織り込み済みであえて特定の価値を選択し、行動せざるを得ない状況が生まれたと分析する、
その、「(行動原理が)究極的には無根拠であることを織り込み済みであえて特定の価値を選択し、行動に移すことを」、宇野さんは「決断主義」と定義する。
最初、「決断主義」というのが、思想学とか哲学の用語なのかと思って読んでいたら、なんだかそうではないようで、調べてみると、カール・シュミットなる政治学者の名前がでてきていたけれど、どうやら宇野さんのいう「決断主義」とは様相が違うようなので、宇野さんの「決断主義」という単語は、宇野さんが独自に編み出した学説と言った方が良いと思う。
しかし、この宇野さんがプッシュする「決断主義」という単語ははっきり言って、意味がよく定まっていないと感じる。宇野さんが「ゼロ年代の想像力」の中で「決断主義」という単語を用いるのは、次のような文脈においてである。
「そしてこういった「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という、ある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サヴァイブ感」を前面に打ち出した作品は、ゼロ年代前半から中盤の大きな流れになってく」
はっきり言って、「決断主義」の説明になっていない。「決断主義」という学説のような単語を用いるからには、そして、それがゼロ年代の想像力の基礎になっているというのであれば、きちんと「決断主義」というものを定義しなくてはいけないはずなのだが、宇野さんはそれを、自覚的なのか無自覚なのか、きちんと定義せず、評論をどんどん先に進めてしまう。
宇野さんは、この「決断主義」的世界においては「ひきこもり」は生き残れないので、好む好まないに関係無しに、すべての人が「決断主義」に参加せざるを得ないという。
このように言われてしまうと、宇野さんのいう「決断主義」とは、非常に広範な概念であり、すべての状況に当てはまってしまう概念のことではなかろうか。仮に「引きこもり」という行為に出たとしても、それは「引きこもり」という行為を「決断」したからにほかならず、それも大きな意味で「決断主義」なのだ。宇野さんはこのあたりの用語の使い方に対し、非常に鈍感であり、読んでいてかなり混乱を強いられた。
しかも、時に宇野さんは「決断主義」に対し、このようにも記述する。
「だから時には「何もしない」というモラル、いや「何もしない」という態度もひとつの選択なのだから、ためらい、迷い、考え続けるというあり方が有効なのだ」
ん?ん?これはまさしく、碇シンジが「引きこもった」ことを「決断主義」の範囲に含めてしまっているではないか、つまり「決断主義」とは、人間が行動する自覚的な行為すべてが「決断主義」になるではないか。そうであると、ゼロ年代に特徴的な概念ではなく、何かを自覚的に行動するすべての人間に当てはまる概念ではなかろうか。
このように、あたかも新しく発見したかのように記述されている「決断主義」ではあるが、よくよく考えてみればそれほど特殊ではない、通常の概念であることがわかる。
このように、宇野常寛の書き方には少し乱暴なところがあり、言及されている作品に対する解釈も少し恣意的な解釈をされているのではないかと感じることがある。
たとえば、エヴァンゲリオンに対する説明として「大きな物語」が「意味を与えてくれないから」「引きこもる」というような説明がなされているが、これはどうだろうか。碇シンジはTV版の最初と最後(最終話2話は除く)こそはそのような態度を取るが、必ずしもずっと「引きこもっている」わけではなく番組の中盤では、きちんと自分の意思で決断し、行動している。それを説明せずにただ一方的に「引きこもり」と表現するのは如何なものかと思う。
※ただし、最初の映画版の碇シンジはほぼ「引きこもり」だったけれど…しかし、その引きこもりも、彼が「決断したこと」と捉えれば広義の「決断主義」と言えなくもない。
つまり、「決断主義」には、広義の「決断主義」と狭義の「決断主義」があるのだ。
広義の「決断主義」は、すなわち、人間が意図して行動していることすべてに当てはまる概念であり、狭義の「決断主義」とは、「大きな物語が生きる意味や、価値を与えてくれないということを、織り込み済みのものとして、無根拠に何かの行為を信じてその行為をなすこと」である。
そのことを、きちんと定義づけしていないために、読み方は混乱し、はっきり言ってどっちつかずの印象しか与えない結果となってしまっているように感じる。
※おそらく、宇野さんの言いたいのは、狭義の「決断主義」であろう。そうでなければ、「決断主義」を克服すべき対象として記載するはずがないからである。何故ならば、広義の「決断主義」は、我々が何かの行動を決断的に成す人間である以上決して克服できないであろうから。
宇野さんの言いたいことは何となくわかるし、かなり興味深いことを書いていると思ったのだけれど、評論としてはどうなんだろう?と思うところがあり、非常に残念に感じた。
ここまで否定的なことしか書いていないですが、なかなか!とも感じます。文庫も、一気に読ませてもらったし、うーんと考えさせられることもあったし、何より、自分が何かを書きたくなるというのは、自分にとってとても良いものに出会えた時のシグナルなので、この文章を書かせた、宇野さんの著作は素晴らしいと思ってみたり。
もし、これ、卒論とかで書いたら、口頭試問で、徹底的に突っ込まれそうな気がして、読んでてヒヤヒヤしました。いや、まぁ、完全な余談ですが。