「言語は不完全である」という言説の向こう側へ


こんな記事を読んだ

言葉の不完全性の話
言いたいことは分かる。
自分も常日頃生活していて、自分の言いたいことが伝わらない、適切な表現が出てこないということにはたびたび遭遇するからだからだ。
ただ、言語のこういった見方は、言語に対する一方的な思い込みから生じているのでは無いかと考えている。

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言語はコミュニケーションの手段なのか?

言語はよく、コミュニケーションの手段と思われがちだが、それがそもそも間違いなのでは無いだろうか。
だから、コミュニケーションの手段としては不完全なのだ。
では、言語とは何か。
ハッキリ言ってしまえば、世界と自分とを峻別する手段だ。
我々は、「私」と「そのた」を区別している、その力の源泉こそが言語なのではないだろうか。
そこで生まれた言語が「コミュニケーションにも使える」と人類が気づいたときに、大きな呪いが我々に掛けられてしまった。ディスコミュニケーションという呪いが。

結局の所、「私」は何処まで行っても「私」であり、決して「他人」に入れ替わることはできない。
「他人」に入れ替わったとしても、それは「他人に入れ替わった私」であり、私というフィルターを外すことは絶対にできない。その、「私」を私たらしめているのが言語である。言語無しには「私」は成立せず、「私」なしには言語は成立し得ない。
その共犯関係の内在性こそが言語の力の源泉なのだ。

だから、他人とのコミュニケーションの手段としての言語は、あくまでおまけにすぎず、自分と世界の峻別に使用していた手段を、対外的に利用しているに過ぎない。
だから、コミュニケーションとしての言語は不完全なのだ。

それは、言語の責任では無い。
言語を、コミュニケーションの手段として用いてしまった人間の側の誤りなのである。
それは、人類が言語をコミュニケーションの手段として用いて以来ずっとつきまとっている呪いなのである。