「風立ちぬ」観たっす!
感想述べるっす!
オッス、オラ(以下略)!
白状すると、宮崎アニメは好きではなかった、特に、厳密に言えば、もののけ姫までの宮崎アニメは好きだった、カリオストロの城も風の谷のナウシカも、天空の城ラピュタも全部好きだ、しかし、あるときから宮崎アニメを敬遠するようになってしまった、それは千と千尋の神隠しを観たときで、理由ははっきりしていた、今まで宮崎アニメに期待していた、あのワクワク感がすべて失われてしまっており、ただの説教臭いアニメ映画に成り下がってしまっていたからだ。「生きろ」だの、自然と共存するだの、仕事がどうのこうの言われてもちっとも心に響かなくなってしまった。だから、千と千尋の神隠し以降に宮崎アニメは、自分から進んで観に行ったことはない。ハウルだけは友達に誘われたので観に行ったが、ちっとも内容を覚えていない、その程度のものだ。
しかし、「風立ちぬ」は何故か観てみようと思った、庵野秀明が主人公の声をやっているというのにも惹かれたが、ネットでの評価が散々だったからだ。と言うことは、それまでの宮崎アニメとは明らかに違うという証拠なのではないかという直感があったからだ。ネットには、宮崎アニメであるから面白いはずだと思い込んだ親子が観に行って訳がわからなかったと言うようなことも書かれており、これはある意味期待できるのではないかという思いがあった。
「風立ちぬ」を一言で言えば、矛盾の映画だ。
今まで(自分が観てきた千と千尋の神隠しまでということになるのだが)自分の観てきた宮崎アニメにも矛盾は存在していたが、その矛盾といかに向き合うかどのように向き合うかが今までの宮崎アニメだったと思う。しかし、今回の「風立ちぬ」では、その試みはすべてにおいて放棄されてしまっている。
いや、放棄という言い方はフェアでないかもしれない、生きると言うことは幾多の矛盾を抱えながらいきていくということを織り込み済みのものとしてストーリーを組み上げている、と言った方がいいだろうか。
それは、ちょうど、村上春樹が、風の歌を聴けにおいて、ノートの真ん中に線を引き、その左右に対立するものを一つ一つ丁寧に置いていったように、この映画の中でも、対立する物事が綺麗に左右に置かれている。
「貧困と多額の資金を必要とする兵器製造」
「生と死」
「美しいものと残酷なもの」
「夢の対象としての飛行機と人を殺す兵器としての飛行機」
それらのものが、全く解消されようとしないまま、物語は進行していく。
話の途中で、親の帰りを待つお腹を空かせた子供に、二郎は「シベリア」という名前の食べ物(お菓子?カステラみたいなもの?サンドイッチ?)をあげようとする、しかし、子供たちはそんな二郎に警戒して逃げて行ってしまう。
もし、これが、前の宮崎アニメだったら、子供たちは食べ物を受け取り実に美味しそうにむさぼり食べたことだろう、しかし、「風立ちぬ」ではそうはならない。
菜穗子の結核という病気に対する二郎の態度も矛盾を孕んだものとして描写されている、菜穗子は結核に冒されており二郎と出会い婚約する、その二郎は戦闘機という兵器を設計している。二郎は菜穗子の病気を心配しつつも、人を殺すかもしれない兵器の設計に全力を尽くしている。これも、以前の宮崎アニメであれば、絶対にみられなかった構図ではないだろうか、矛盾を抱えた状況に対し、宮崎アニメのヒーローは果敢に挑戦する。それは、もののけ姫のアシタカの立場だ、自然と人間が対立したときに、どうにかして両方の融和と隔離を試みて全力を尽くし、もののけ姫を救うという行為を為す。しかし、二郎は、あえて矛盾を解消しようとはしない、菜穗子をサナトリウムに預け兵器の設計に邁進し、菜穗子と黒川邸で結婚し、菜穗子の病状が良くならなくても、菜穗子の寝ているそばでたばこを吸い、兵器の設計を行う(そのときは、確かに菜穗子の了承があったのだが……)
大きな矛盾だ。今までの宮崎アニメの主人公とはかなり違うタイプの主人公像がそこには提示されている。
しかし、それが人生なのであり、それが人が生きてゆくことなのだ、という偽りのない事実に、この映画で宮崎アニメが初めて向き合ったのではないかと思う。今まではきれい事ばかりを言って、生きることの良さを前面に押し出したアニメを宮崎駿は作ってきたと思う。その姿勢に偽りは無いとは思うが、特にもののけ姫以降その傾向が強まったことに自分は大きな失望を覚えてきた。そのようなメッセージ性は、受け取った側が自由に解釈すれば良いのだ。
自分には、テクストはあらゆるコンテクストに対し開かれているべきで、特定のコンテクストとして読まれるべきでないという持論がある。
今までの宮崎アニメはどうしても、ある読み方を強制しているような気がしてならなかったのだが、「風立ちぬ」は違う、矛盾全快でエンディングまで突き進み、何も救われない。
いや、アニメのエンディングまでにおいては何も救われていないと言うべきか。
しかし、それで良いのだと思う、その後、視聴者が何を考え、どう解釈したのかは、視聴者に任せるべきだし、実際そのようなアニメになっていたと思う。
自分が好きな映画は、何かのメッセージ性を視聴者に託すような作品だ。メッセージ性を押しつけるのは、作者のエゴであり、そのエゴが一定の真実を語っていたとしても、自分は好きになれない。
その点、「風立ちぬ」は諸矛盾をひっさげたまますべての解釈を視聴者に託す。それで良いと思う。
そこから、視聴者が考え何らかの結論を自らの手で引き出すことができれば、それで良いのだと思う。
だからこそ、もののけ姫のキャッチであった「生きろ」はなりを潜め「生きねば」と自分に言い聞かせたのだ。
強制から主体へ。
何か言われたからそのように行為するのではなく、その行為が間違っているか正しいかわからないが、あえて間違えることすら織り込み済みで、まずはとりあえず一歩を踏み出してみる、昔の人はいつ死ぬかわからなかったからそれしかなかったのだ。だから、先に何があるかわからないが「生きねば」という言葉が出てきたのだろう。
「風立ちぬ」は、矛盾と共に、エゴイズム的描写が散見される映画だったと思うが、それで良かったと思う。もしかしたら明日死んでしまうかもしれない人間であれば、今を大切に生きるということがエゴイスティックに見えるものなのだ。それこそが、生に対して精一杯生きていることの証なのだと思う。
おそらく、それを潔癖な意味合いにおいてエゴイスティックと表現できるのは、死を遠くから眺めることのできる存在に我々がなってしまったからなのではないだろうか。
この作品を観たとき、正直感動したが、不思議と悲しさを覚えなかった、それは、きっと生きることに対する、実直と言っていいほどの生き方が、全くオブラートに包むことなく描写されていたからだと思う。
この作品は、決して万人に対して面白い映画とは言えないかもしれない、しかし、自分にとっては、掛け値無しに「良い作品」だと思う。
不適切かもしれないが、ポルコ・ロッソならこう言ってただろう「生きるというのは、こういうことさ」って。
今の我々には、推し量ることができない、生き方が、映画の中には描かれていた。
とても美しく、とても残酷に。
機会があればまた映画館に観に行きたいと思った映画だった。
ジブリが近所にあるので、映画の余韻に浸りつつ、思わず聖地巡礼の旅に……(聖地なのかは知らんが)