自分探しの言説についての射程と問題点について

自分が大学生になりたてのことだろうか、しきりに「自分探し」なる行為についての言及がなされることが多かったように思う。

自分は哲学科にいたので、自分のそういった行為自体が「自分探し」なる行為と思われることがあったかもしれないが、自分は自分探しのために哲学科を専攻していたのではない、ただ単純に哲学という学問に興味があったかりに他ならなかった。

自分は「自分探し」なる行為に対し幾分か懐疑的な視線を向けていた。
「自分探し」なる行為を巡る言説には必ずと言っていいほど、「本当の自分」なる言葉が登場する。
今の自分は本当の自分ではないという直感から、「本当の自分」なるものを探求することができるという考え方に他ならないのであるが、この「本当の自分」という言説に対し、自分は非常に懐疑的な視線を向けざるを得ない。

何故ならば、「本当の自分」という存在が、実在論のように、実際に何処かに存在するなりすると仮定してみよう、そして、何らかの経験を経てその、「本当の自分」を見つけたとする。そのとき見つけた本当の自分がどうして本当の自分だと立証できるか、証明できるかという根源的問題から逃れることはできない。証明ができない以上、見つかった、本当の自分であろうと思われていた存在が、本当の自分でないという可能性からは逃れることができない。だから、「本当の自分」と言う存在が、実在論的に存在しているという立場から「自分探し」を出発させると、必ず失敗する運命にある。

※「本当の○○」という言説には用心深く接する必要がある、なぜなら、「本当の……」というものがどうして本当であると断言できるのかという疑問が常につきまとうことになるからである。
仮に、その言説が、科学上の言説や数学上の言説であれば、立証手段が確立されているから「本当の……」という言説は立証することができる(もちろん、その正しさというのは、特定の系の中でしか立証されない可能性は常につきまとう。たとえばユークリッドの平行線公理は、非ユークリッド幾何学の中では意味を持たないからだ。平行線公理が本当に正しい世界は、ユークリッド幾何学の世界であり、非ユークリッド幾何学の世界の中では自明ではない、ということと同じだ)
だから、科学的で数学的な言説であれば、注意深く言説の範囲を設定することで「本当の……」ということを言うことに何ら問題を感じることはない。
しかし、形而上学的な言説においては「本当の……」という言葉が出てきたら、必ず疑って見るべきである。

それは、ちょうど、「真理」にも対応する。「真理」を見つけたところで、その「真理」が本当の真理であると、どのように立証するのか、証明するのか、という問題が常につきまとう。というより、本当の真理であれば、それを認識することなく、それは自分と不可分のものとして癒着しており、切り離して「認識する」と言った行為すらできないはずだからである、自分の認識から離れて、それを客観視でき、その整合性や正当性や存在的意義を吟味できる対象は、それは本来の意味の「真理」からは離れているはずである。自分と不可分のものであるからこそ、それは端的に言及できない対象として我々に合一してあるはずなのだ。

つまり、「自分探し」が射程としている、本来の自分・本当の自分は、絶対に見つからない、もっと正確に言うのであれば、自分に認識できる・立証できる・証明できるような形では見つけることはできないということである。
これは方法論の問題でなく、我々の言語上の問題であり、言語の構造の問題であり、認識論的問題である、だから、この問題から逃れて、本当の自分を見つけることなどできないし、本当の自分を見つけたという感覚は、はっきり言えば偽物の感覚ということになる。

しかし、福音はある。
「自分探し」を通じて見つけた自分を本当の自分であると思い込むことはできる。
それに、「自分探し」において経験した自分についての主体的体験については、それが幻想であるとしても、その幻想をみたという経験が自分において、認識論的に認識できると言うことであれば、その体験自体は否定できないはずである。
だから、その経験から、自らが何かを得たという確証があるのであれば、その経験は自分にとっては真実であるはずだ。それを否定することは誰にもできまい。それが幻想であるにしても、だ。
(端的に言って、「真実」は、「本当の○○」とも「真理」とも違う)

だから、最近しきりに社会人に言われるようになってきた、「意識の高い」という言説にも自分は懐疑的な視線を向けざるを得ない、「意識の高い」という何かの言説を公言するときに、人は何になろうとしているのか。
勉強して、資格を取得するなどということであれば、納得できるのだが、よくわからない方法論にて自己意識の底上げを図るような言説や、宗教論にも近い、働く意味や生きる意味探しについても疑問を抱いている。結局の所、それらは実在論的には存在していないものであり、何かを求める課程で得た経験をかけがえのないものとして、あえて答えが出ないことを織り込み済みのものとして、いろいろとやってみるという、ある種の開き直りがあるのであれば問題ないのだが、その先に実在論的に何かが存在していると仮定して、その何かを探す行為を意味しているのであればそれは必ず失敗する。
失敗する理由は、先ほども書いたが、結局の所、実在論的に、形而上学的な本当のものが存在しているわけではないからだ。

ニーチェならこう言うだろう、本来生きると言うことは辛いことである、そのことから目を背け、偽りの幻想を見いだすことでしか生きてゆけないのであれば、そのものは亡びるべきであると。