個と公の明確な境界線は曖昧になってきている
まずは昔話から
その昔、哲学専攻の大学院生に成り立ての頃、修士論文に向けてどんなテーマの研究を行うか、教授と簡単に話したときのこと、学部生の時は後期ヴィトゲンシュタインを研究していたのだけれど、修士課程では「インターネット」について研究したいと言ってみた。
それだと漠然としていて、インターネットの技術的なことなのか、なんなのかわからない。
技術的なことなら工学だし、哲学に絡めないとインターネット関連の研究なんてさせてもらえないだろうから、「今後インターネットが及ぼす、個と公(プライヴェートとパブリック)の関係性の変化について研究したい」と言ってみた。
すると教授の反応はイマイチ。
当然だ、当時の日本の哲学界隈で真剣にネットが哲学にどう関わってくるかの先駆例なんて無かったから、教授としてはピンとこなかったかもしれないし、来ていても、研究成果の是非を判断することは今の状況下では難しいと考えても当たり前だ。
アメリカの哲学界隈ですら、ようやく、ヒューバート・ドレイファスが「インターネットについて 哲学的考察」(邦題)という小さな本を出したばかりで、哲学界としてもネットとどう向き合って良いのか、世界的に試行錯誤が始まったばかりという状況。
外国の論文もきちんと手に入るのかリサーチしていない状況で、2年の期間で研究がまとまるかどうかすら怪しい。
危険な賭になる可能性はあるし、もしかしたら、哲学というより社会学寄りの内容になってしまい、哲学専攻としての評価が得られないかもしれない。やはり危険すぎる賭だ。
というわけで、結局研究は引き続き、後期ヴィトゲンシュタインの研究を行うことになったのだけれど、ずっとこのときのことが引っかかっていた。
時折昔のことを思い出す
ネットをやっていると、いろんな折で、昔漠然と考えていた、プライヴェートとパブリックの関係について考えさせられる。
プライヴェートとパブリックの関係は変わっていないのかもしれないけれど、確実に言えるのは、両者の境界線がネット出現以前よりもかなり曖昧になってきていると言うことだ。
いや、曖昧という表現はおかしいかもしれない、境界線が変わってきているとでも言った方が良いのかもしれない。
Twitterでの炎上事件などをみるに付けその思いが強くなってきた。
村上春樹はジャズ喫茶経営から30代になり売文業に転じた後天性の文化ポルノ作家
最近では、こんなTwitterのまとめを見てそんなことを考えたりした。
今回は、このまとめを主軸に自分の意見を書きたいと思う。
作品のとらえ方は主観的にならざるを得ない
このまとめで言われている問題が何かというと、村上春樹に対する評価が「昔ジャズ喫茶店を経営していて、そんな来歴がある人物の生業は売文業である」とある人がTwitterで言ったことであり、それに対して、「その人物がジャズ喫茶店をやっていたというだけで評価が下げられるのはおかしい」という反論があがってきたことだ。
意外かもしれないが、自分は、「ジャズ喫茶店を経営していたから、(純文学)作家として認めねーよ!」っていう意見、「だから村上春樹の作品はつまらん!」っていう意見は非難されるべき評価ではないと思う。
テクストというものは、すべての人に開かれており、その付帯情報(作者がどうこうとか)の部分も含めて、コンテクストにおいて受け取り方が斟酌し、評価を下すというのは、作品に対する至極まっとうな態度であると思う。
これが無くなってしまったら、テクストは評価すべき人しか評価ができないというとても奇妙なものになってしまうだろう。
だから、誰がどんな評価をしても、それはまっとうな評価なはずである。
(もちろん、評価もテクストだから、開かれており、それ自体が評価されることは拒めない)
ここは動かせないと思う。
もし、ある一定のコンテクストでしか評価されたいのであれば、作品の開示を一定の範囲に区切るか、そもそも作品を発表すべきでは無いと思う。
作品が発表された瞬間に、作者の手をある程度離れてしまうのは致し方ないというか、作品の持つ宿命というものだと思う。
批判をする場に問題無いか
しかし、この手の批判は、注意を要すると思う。
これは自分の主観なので、もしかしたら、違うとらえ方をしている人もいるかもしれないが、この手の批判は、居酒屋で同じような意見の人同士がクダ巻ながら、「村上春樹はジャズ喫茶の経営者だったんだぜ。純文学きどるんじゃねーよな」的に、あくまでプライヴェートなものとして語られるべきだったんじゃ無いかと思われる。
わざわざ、Twitterというパブリックの場で言うべきことでは無い。
だから、これだけ批判も浴びたし、擁護してくれた人も現れたけれど、結局話が何かしら有意なところに帰着すること無く、平行線をたどって終了したように見える。
それは当然で、主観をぶつけ合っているだけなので、そもそも合意なんてできっこないのだ。
これは推測だが、最初に「村上春樹が~」ってツイートした人って、まぁ、居酒屋愚痴的なノリで書き込んだら、Twitterってパグリックなので、暴言と捉えられ炎上(とまで言い切れるかな?)したんだと思う。
これ、完全に、居酒屋(プライヴェートの場)で言っていれば、取り巻きの賛同得られて終了していたのに、ネットというプライヴェート空間でありながら、そこにぽっかりと空いたパブリックという穴めがけて叫んでしまったものだからさぁ大変。事態が大きくなってしまったのでありました。
っていうことなんだろうな。
完全に発言すべき場所を間違えてる。
その意見、ネットで言うべきですか?
Twitterでの炎上騒ぎにしろ、なんにしろ、ネットがパブリックであるということに気づいていない人、無意識に利用している人ってかなり多いんじゃ無いかと思っています。
学生が起こした一連のTwitterによる炎上騒ぎも、プライヴェート空間の一環で行ったと思っていたことが、実は巨大なパブリック空間への投げかけでした、と騒ぎが大きくなってから気づいたわけですし。
ネット登場以前は、プライヴェート空間にパブリックの窓が開いていることは無かったわけですよ。
本当に、窓から外に向かって近所の悪口叫ぶとかいう例外を除いては。
プライヴェート行為の延長線上が、パブリックに直結していまい収拾が付かなくなるというのは、ネット特有の事象です。今まではそんなことありませんでした。
(それなりに有名人で、常に報道関係者に見張られているという状況は除いて)
だからこそ、よくよくプライヴェートとパブリックの関係性について考えて、ネット上での発言を行うべき何ですが、その辺の学生や、ましてや東大の教授ですらその観念に欠けているようで、本来ならプライヴェートで言っていたら何とも無かったことを、あえてネットで言ってしまったためにことが大きくなるということに
巻き込まれるわけですよ。
つまり、ネットで何かしらの発言をするのであれば、よくよく注意して発言する必要があるってことですね…
まとめ
ネットは、プライヴェート空間にぽっかり開いたパブリックの窓のようなもの。
そこから何かを叫ぶって言うのは、家の窓から外に向かって叫ぶのとおんなじなので、よくよく注意すること
。
そういう意味では、windowsというネーミングは比喩的に間違っていなかったと思う今日この頃。
(もちろん、windowsの窓とは、windowsシステムのことを示しているわけですが…)
まとめを見たときには、村上春樹に対する新しい像が描けるんでは無いかと思って夢中で読みましたが、結局飲み屋の愚痴的な感じでがっかり、しかも結論が全く出ず、お互いの意見が空転しているだけだったので2度がっかり。
てか、この手の議論は主観的すぎて、お互いの意見をぶつけ合うだけで、着地点が無いんですよね…