「風立ちぬ」のBDを買いました
「風立ちぬ」のBDと、それに関係する「夢と狂気の王国」「宮崎駿の仕事」(NHK プロフェッショナル仕事の流儀)のBDを手に入れたので、改めて「風立ちぬ」の批評なんぞをやってみたいと思っているのですが、どうにも考えがまとまらない。
細かいヒントは見つかるんだけれど、体系を成さずに悩んでます。
自分のまとめ能力のなさに。
その中でも1つヒントになりそうなことを見つけたので、メモがてら書いてみます。
父親の不在
宮崎アニメには、「強い」父親の存在が感じられない作品がほとんどだ。
ちょっとピックアップしてみる。
風の谷のナウシカ
→父親は病の床に伏していて、物語中で殺される
天空の城ラピュタ
→父親不在(ラピュタは見たが、その後死亡)
となりのトトロ
→唯一父親がメインキャラに近い位置に出てくるが、「強い」とは言いがたい
魔女の宅急便
→ほとんど姿をみせず
紅の豚
→父親と呼べる存在はいない。フィオのじぃちゃん(ピッコロ社の社長)は出てくるが、父親では無い。ポルコは出てくるが、父親としては未熟な存在。
もののけ姫
→父親と呼べる存在は不在
千と千尋の神隠し
→途中でブタになり、物語のラインからは一旦消える存在。
ハウルの動く城
→父親なんていたっけ?
崖の上のポニョ
→(見てないのでわかんないっす)
風立ちぬ
→強い父親像は全く描かれず
というように、宮崎駿監督作品だけをピックアップしてみたが、「強い」父親像が描かれた作品は全くないと言っても良い。
唯一例外的なのはとなりのトトロだけれど、強いというか、そっと見守るだけで、特に物語のラインには絡んでこないので、父親像としては弱いものだろう。
何故、宮崎アニメには父親が不在なのか
おそらくだが、宮崎駿とその父親との関係性が、アニメから父親臭を脱臭している遠因なのでは無いか。
宮崎駿はつい最近まで、戦争協力者としての父親を許せなかったようだし(宮崎駿の父親は太平洋戦争のために軍用機の部品を作っていた)、病気がちだった母についても複雑な感情を抱いているようだ。
だからこそ、女性がやたら活動的(病気がちだった母に対するアンチテーゼ)であり、父親不在(戦争協力者としての父親に対するアンチテーゼ)として、このようなアニメ群が存在するのではなかろうか、と思っている。
そのあたりの葛藤とその解消が「風立ちぬ」には隠されていると思うんだけれど、上手く見抜けないっていうのと、うまく表現できないっていうところで悩んでます。
モヤモヤモヤモヤ。