サリンジャーの本を読むとムズムズします
サリンジャーの本は「ライ麦畑で捕まえて」「フラニーとズーイ」(村上春樹訳)の2冊しか読んでいないのですが、2つの本を読んでいつも感じるのが、ムズムズとした気持ち。
なんか読んでて居心地の悪さというか、なんて言うんだろ、胸に何かがつかえた感覚を覚えてしまい、どうしても楽しく読み進めることができないのです。
村上春樹の訳云々以前の問題として、サリンジャーが言いたいことが、自分には合っていない、そんな感じがするので、何でだろう、とふと考えてみました。
無垢
サリンジャーの小説は主に「無垢」について書かれたものだと理解されています。
その無垢さというのは「世の中が欺瞞と偽善に満ちている、つまりエゴの世界である」という感覚からくるものですが、その無垢さが結局の所、「己のエゴ」の表出に過ぎないとおもう訳であります。
「ライ麦畑で捕まえて」のホールデンしても、フラニーにしても、「世の中は偽善で、欺瞞に溢れていて」「自分だけがそのことを知っている」かのような態度をとるのだけれど、それ自体がエゴな考え方としか考えられないわけです。
自分だが世界の真実を知っているというのは、一種の妄想であり、陰謀論に近いものすら感じざるを得ません。
だから、サリンジャーの小説では「無垢」を描こうとして、実はその先にある、無垢からくる「エゴ」について明確に書き出していると思われるのです。
おそらく、サリンジャーの描きたかった無垢は「語り得ぬもの」(ヴィトゲンシュタイン)に属する概念であり、それをわざわざ小説という、表現されたものに変換してしまったため、「語りうる」領域への転落が起きてしまい、結局の所、無垢でありたいという(対して世の中はエゴの塊である)という信念が却って、無垢に対する渇望と無垢に対する他者への強制と見下しがない交ぜになって、それ自体が無垢では無い概念へと到達してしまっている(落ちてしまっている)と考えるわけです。
ニーチェの考えるキリスト像
ニーチェはキリストそのものを「白痴」と捉えており、現在のようなキリスト教となってしまったのは、ルサンチマンにかられたパウロ達がキリストを一種の「英雄」と祭り上げ、その後キリスト教を立ち上げたからだと考えていた。
つまり、キリスト自身には、キリスト教的要素は全くなく、すべてがなすがまま、思うがままの行動であったのに対し、その人の死を受け入れられない、彼の弟子達が彼の、特に大きな意味での「無意味な死」に対し「ある種の意味を見いだして」布教した(ニヒリズムを生み出した)ことが、キリスト教の問題点なのである、とニーチェは看破したのである
それと同じことが、サリンジャーとサリンジャーの作品群にも言えるのでは無いか。
サリンジャーは、彼の思う無垢を知っていたが、それを言語化する過程で、無垢は無垢で無くなり、エゴに転化してしまったのでは無いか。
自分がサリンジャーの小説を読んでいて「臭う」のは、彼が、彼の考えている「無垢さ」というものに無邪気すぎて、鈍感であると言うことなのだ。
サリンジャーは「無垢」をあえて語る。
しかし、それは「語るべきものでは無く、示されること」なのだ。
だから、ホールデンの言葉も、フラニーの言葉も態度もすべて、白々しく見えてしまうし、聞こえてしまう。
彼は、無垢を表現したときに起きる、エゴへの転化に対し、鈍感すぎて、それが自分をいらだたせるのではないかと考えているわけです。
自分は「無垢である」と考えているほど、「エゴ丸出し」ということに全く気づいていない鈍感さ。
それでもなお人気のある作家
サリンジャーは、それでもな、人気がある作家であると思っています。
レビューを見れば、ホールデンに共感した的なものをおおく見受けることができます。
しかし、そういう人たちは、小説の中に表現されている「無垢」が実は一種の「エゴ」であるということに気づいているのだろうか。
気づいていながら、あえて、自分の丁度ホールデンと同じ年代に感じていた、世の中の欺瞞とやらに共感するから、支持するのだろうか…それが自己矛盾に彩られた、単なるわがままだとしても。
とまぁ、サリンジャーのことを結構ぼろくそに書きましたが、「無垢」には、実はこういった構造があるのだよということを示したということは、大きいことだと思うので、その点は評価できるのですが、そのことが全く分からないように書いてあるので、おそらく、サリンジャーは「無垢」に対して深く考えていなかったのでは無いかと思っています。
世の中に対して、ルサンチマンを抱き続け、表出した結果「無垢」という概念を借りて、世の中を批判していたのだと思います。
その行為が「無垢」という概念を怪我してしまうことを知らずに…
自分はそう思っています。
だから、サリンジャーの本を読むと、「本に書かれている無垢こそが欺瞞である」と強く思ってしまい、気持ち悪さだけが後に残るということなんですね…
って、こういう見方ってひねくれすぎているのだろうか…